愛ある拒絶(その後)

彼が「自分中心でいたがる人」だというのは随所に表れています。自己愛と共通する部分が多く見られる。しかし自己愛と違うのは、根っからそういうタイプの人間ではなさそうに見える所。

自己愛は自分を疑うことはしない。けれど彼はそうではなく、まるでそういう自分を演じているかのような。それでいてそんな自分を好きになれないことに苦しんでいる。だけどやめることも出来ない、そんな気がしていた。

彼には圧倒的に笑いのセンスがありません。ですので、人を貶して笑いをとるという手法をよく使います。これも自己愛との共通点ですが、彼は自分が面白くないことに気付いていて、その欠点を隠すための鎧なんだと思う。だけど当然他人からは受け入れられにくい。

人は面白いという理由だけで他人から好かれるわけではない。ましてや罪のない人を貶して笑いを取るなんて面白くもなんともありません。彼もまた広い意味で「愛されたい」だけなのに、他人を傷付けて得るものは乾いた笑いだけ。そして自分も傷付くのです。

他人を褒めると負けたような気分になるような人がいます。過去の私もそうでした。他人を褒められないのは、他の誰よりも自分を認めて欲しいからだと考えています。自分の劣った所を見たくないし認めたくないという気持ちが強すぎるのです。端的に言うと飢えている。

私が約二年間、他人を褒め続けてわかったこと。他人を褒めることは決して負けではありません。逆に自分の弱さを認めている強さの証だと、今は考えています。そして他人を褒めると自分に返ってくる。

なのにどうして他人を褒められないのか。それは相手を間違えている場合もあるからだと思う。私は今でも自己愛や共依存者のような人は絶対に褒めません。あくまで良心を持った普通の人というのが前提です。

自分で自分を支えられない人=満たされない人は、常に他人から奪うことしか考えていない。たとえ褒める事により一時的に満足させたとしても、飢えた人間の欲望にはきりがないからです。それらの要求はエスカレートする一方で、果ては加害者扱いされるのがオチ。

家族も含み、こうしたタイプに奪われ続けてきた私は「他人を褒めれば自分が損をする」という間違った認識を持っていました。もちろん普通の人でも、褒めてもらいたいから褒めるというのも違うような気がする。他人の波動を上げることによって自分の波動も上がるのだと思います。

 

脱線しましたが、久し振りに会った彼は人を貶すことが極端に減っていた。無駄な自己主張もなくなり、多少ぎこちないながらも穏やかな微笑みすら浮かべていました。そんな彼を皆が心からの笑顔で迎え、今までにはない和やかムードのままお開きになった。他人事ながら嬉しかったです。

繰り返しますが、人間は別に面白くなくてもいいんです。自分の考える強さが他人にも受け入れられるとは限らないのだから、無理に強い人を演じなくてもいいんです。普通の人はそんなことで他人を責めたり馬鹿にしたりしない。皆、ありのままのあなたでいることを望んでいるのだから。

 

彼はこのまま、本当の自分に帰ることができるだろうか。 そうであって欲しいです。