責任

マウンティングおばさんは他人の恋愛事情にも口を出し、自分こそが正しいと言わんばかりに他人を否定する。

しかし、仕事だけではなく一人の女性としても侮辱された側の私は、おばさんが相手の女性問題で離婚している事について言及してはいけない。「あなたが正しいのなら、なぜあなたは捨てられたの?」とは口が裂けても言ってはいけないのです。

なぜ言ってはいけないのか?それは人としてのマナーとかそういった類の暗黙のルールなのですが、最低限の思いやりでもあると思う。そして思いやりは愛からきている。おばさんには愛の欠片もないというのに、おかしな話だ。

 

私はこんな事を考えていますが、だいたいは幸せです。幸せなら全てに愛を注げるとか言いますが、そんな域には達していません。今の所は達したいとも思わない。

先日、会社の人がやらかしまして。次から気を付ければいいだけで、私にとっては大した問題ではなかったのですが本人はかなり落ち込んでいた。好きな人が元気でないのは見ている方もつらい。

何とか元気になって欲しいと思い、あれやこれやしてみたり色んな言葉を掛けてみた。次の日、彼女は元気に出社してきて「(私)さんの言葉で元気が出た。ありがとう」とお礼までくれた。お礼までくれるポイントがどこにあったのかは謎のままですが。

彼女の笑顔を見ながら、私は今まで誰かの為に無条件で優しくしたことがあっただろうかと考えました。誰かに与える時、そこに自分は存在せず、ただ純粋に相手の幸せだけを願った事があっただろうかと。

私は彼女がお礼の品や言葉をくれたのが嬉しかったんじゃない。彼女が元気になってくれた事が嬉しかったのです。そして私はこれを望んでいたんだと気付きました。

私はずっと『頑張っていることを認めて欲しい』と願いながら生きてきた。認めて貰えなかった悔しさが、ずっとずっと根強く無意識にありました。けれど今は全くありません。他人に認めてもらう為になんか頑張りたくない。自分が他人にどう思われるかという事すら興味がない。

優しくすれば舐められ、つけあがる人間ばかりに愛を注ぎ、そうでない人をないがしろにしてきたからこれまで気付けなかったのです。本当はわかっていたのに、踏み出すことができなかったというのもあると思う。

 

私は今、もの凄い勢いで思考がこれまでとは反対方向へ向かっていると感じている。ちょうど半年前にこの日記の中で『パラダイムシフト』について触れていますが、明らかに心の位置がズレています。

例えば共依存者は少し前から体調が悪いのですが、その話をしている横でお構いなしに笑える自分がいる。自己愛の不運と言える状況にも全く動じず、何もなかったかのように流せる自分がいる。わざとそうしているのではなく、心がピクリとも動かない。つまり罪悪感がない。

どうして私はこんな人達に罪悪感などというモノを抱いていたのか思い出せない時があります。今の状態はコンフォートゾーンが変わったと言えるかも知れない。私はなんだかんだ言いながら、あの場所が楽で快適な領域であり、自分にとって安全だと認識していたのだと思います。

どれだけ苦痛を感じていても、どんなに辛くても、そこから抜け出すのが怖くて変わらない方を選んでいたんだ。

自分の心に従う強さをIさんからもらった。私は「社会人として」「大人として」そんなものはもう要らないんだよ。この先、私の人生がどんな結末を迎えたとしても、自分の人生の責任は自分でとるから、それでいいんだ。

何かを守るためには捨てなければいけないものがあると思うから。