嫌いな人の幸せ

私はこれまで人間関係を変えたい時、その場所から離れるタイミングで切り捨てる事が多かった。だけど今は違う。これからも顔を合わせ、付き合っていかなければいけない人達に対して私の行っていることはどんな結末を迎えるのだろうと、ふと思う時もありました。

おそらくどうにもならない。私は彼らを恨んでいるわけではないからです。恨みは敵意を生み出す。そしてそれを隠し通せるほど私は器用ではない。敵意を感じると、攻撃的な多くの人は全力で戦おうとする。これでは今までと変わりません。私は寧ろ彼らの幸せを願っています。

『嫌いな人の幸せを願う』という意味について。私は聖人君子じゃないので、嫌いな人の幸せを願うことなんて考えられないと思っていた。潜在意識は他人と自分の区別がつかないので、他人の不幸を願うと自分に返ってくると言われていても、です。

まず、思考が現実になるというのは無意識の領域であり、本人が強く意識しない限り良くも悪くも思考が反映されるのだということ。いうなれば思考のクセがそうさせている。私は自分や他人の思考と現実を観察し始めてから、なるほどと思う事がよくあります。

最近だと、身近で他人の過失を問う場面に遭遇した。問われた側は決して故意ではなく、十二分に反省をしているように見えました。被害も少なかったので私は個人的に厳罰を与える必要はないと感じ、そう意見を述べたけれど、結果は厳罰を与えることにしたらしい。

それは当人の問題なので別にいい。気になったのは迷った挙句にどうしてそっちを選んだのかということです。当人は常日頃から様々な鬱憤を抱えており、些細なことで叱責される日々を送っているようだ。そして「どうして自分だけが」と思っているのも伺える。

私は今回の件で、一見そんな風には見えないけれど実は他罰的な人なんだなと思いました。事の結末と日々の愚痴を、やってることは同じなんだよなぁと、ぼんやり聞き流していた。

引き寄せ的に言うと、これは本人が望んだことになる。望んだことが現実になる=幸せだと考えるようになった私は、例え現実が不幸に見えても広い意味では幸せなのだという結論に至った。誰もそんなことは言っていませんが、なぜか。

嫌いな人が幸せになる所を想像すると腹立たしく感じるものだと思う。それが自分に危害を加える人なら尚更だ。しかし幸せは漠然としたものだし、自分が思う幸せと誰かの幸せは同じではありません。他人が本当に幸せと感じているかどうかを知る方法もない。よって相手の幸せを想像することは無意味だ。

思考がが現実になるという前提で、生きている限り思考は動き続けるのだから、生きているだけで幸せという事になります。更に生きている事が幸せかどうかも知る由はないのだから、とりあえずどうなっても幸せなんだという所に行きついた。こういう意味で、私は彼らの幸せを願っている。

 

他人の思考に責任を持つことは不可能だ。よって他人の人生も背負えなくて当たり前。

今の私は冷たいだろうか。でもね、毒親も含めたある種の人達を傷付けたのは元々私ではないんだよ。過去に何があろうと、それは私以外の誰かだ。仮に私の父がACだったとして、両親が原因なら私の祖父母にあたるので戸籍的には他人ではないけれど、私という個人ではない。

八つ当たりを受け、それを許す行為は、全く赤の他人のケツを拭いているのと同じ。そんな必要ないよね。たとえそうすることでしか自分を保てない人がいたとしても、その相手が私である必要もないしね。

許す側も、相手を助長させるといった意味では加害者にもなりうる。いやそれだけではなく、許しという名の我慢の連続は自身も正真正銘の加害者になる可能性が高い。だからこそ、自分を大切にしなければいけないのです。