ゴミ箱

私の会社では営業に関わる書類等は全部担当者が作成しており、事務員さんはあくまで会社の事務がメインなので仕事量に結構な差があります。ここ最近、忙しい上に厄介事まで持ち込まれて私自身は怒りが収まらないのですが、当事者以外には全く何も感じない。

こうした状況はこれまで幾度となくあるけれど、会社の為とか誰かの為とか思っていた時は「こんなに頑張ってるのに」という被害者意識が満載でした。随分前はのんびりとしている他の人達に内心では苛立っていた事も多々あったし、きっと態度にも出ていただろうと思う。

仕事だけではなく、ある種の人達から受けるダメージは免疫のない人だと潰れてしまうため、その精神的フォローまで担わなければならない。それもこれも全部会社の為で、私のフォローまでは誰もしてくれないのに「どうして私がここまでしなければいけないのか」と不平不満が渦巻いていた。

だけど今は自分でも不思議なくらい落ち着いている。元々の原因はある種の人達で、他の人達は関係がないし、私が精神的フォローをしているのはあくまで自分の為だからです。そしてもちろんお願いすれば仕事も手伝って貰える環境にあり、それをしないのは後少しすれば忙しくなるはずなので体力を温存していて欲しいから。

どんなに忙しくても当事者以外の人達に笑顔を向けられる自分は、昔よりは大きくなっただろうかとそんな事を考える。別にここを目指したわけではありませんが、怒りの矛先を原因以外の所へ向けるのは本当にいけませんな。これがわかっただけでも共依存者の無能ぶりは悪い事ばかりではない。

私が安易に人を頼らないのは自分でした方が早いという理由もさることながら、ぬるま湯に浸かっているとイザって時に困るのは私自身だからです。なので私は事務員さんの仕事も一通りはできる。入れ替わりが激しかったし、突発的に居なくなった時にも対応できるようにしています。

今の私は人間関係にもこれを適用しているだけなのかも知れない。思い出したくもないけれど依存していた頃は苦しかった(相手の方が苦しいのは承知)。依存だけじゃなく、ないモノを求めるのって本当に苦しいんだよ。手に入らないモノを追い続けるって、良い意味で夢を追い求めるのとは全然違う。ある種の修行だよ。

自分で自分を支えられ、誰よりも自分が自分の味方であるという自信があれば、失ってしまうかも知れない「いつか」の時を想定する必要がない。仮にその「いつか」が来ても大丈夫だという絶対的な安心感がある。

 

GW明けからハードだったから昨日は久しぶりにぐったりしてたけど、変わらず綺麗な部屋を維持している。「部屋は心の状態と同じ」と言われる理由について。

私は正直に言うとその言葉が全く響かなかった。私は掃除が出来ないことよりも好きになれない事に悩んでいたのだから。パッと見の物が少なく、床に物を置くとはいえ、検索すれば出てくる汚部屋とはほど遠かったし、過去に断捨離や大掃除をしても何も変わらなかったせいもある。

しかし過去を思い返すと、私は心の底から自分が嫌いだったのです。部屋が綺麗になっても、自分自身がふさわしくないと感じる。こんな自分は汚れた所の方が似合っている、無意識にそう思っていた感は否めない。部屋だけじゃない、居場所も関わる人も全て自分に見合うと感じたモノを選んできたんだと思います。

大切にされず、感情のゴミ箱のように扱われる私にしたのは他人が先か自分が先か、部屋との関係性があるのかないのかはわからない。そして掃除が出来ない全ての人が自己肯定感の低さを感じているわけでもないと思う。ただ私の場合は「自分を諦めていた」のだろうと結論づけました。”どうして自分は”とか”私なんて”とか。(ウザい)

自分の価値は他人が決めるものじゃないと言いますが、だからといって他人には他人の価値観があるので、石ころをダイヤだと偽り法外な値を付けて売り付けようなどとしてはいけない。逆にダイヤに価値を見出さない人だっているのだし。自分の価値を決めるのは自分だけど、自分の価値=他人からの価値って考え方は危険だな。

私は今の自分が好きだけど、誰かから価値がないと言われたっていい。価値がないってことは必要じゃないんでしょう?必要がないなら頼らないで欲しいし、甘えないでもらいたい。私が他人に望むのはそれだけ。他人に値を付けるなら、自分も値を付けられる覚悟はしておくのが当たり前だろう。

ゴミ箱はゴミが入らなくても一向に構わないの。寧ろ綺麗なままだからそっちの方がありがたいの。反対にゴミを生産する人はゴミ箱がないと困るんだよ。ゴミ箱が無くなったら、その辺にポイ捨てして誰かに迷惑かけるんだよ。ゴミ箱が汚いんじゃないの。ゴミの方が汚いんだよ。

 

 

ちなみに私がここでずっと書いてきた「出来ない人が優遇されるのが許せない問題」についてですが、あれも起因は母である。気持ち悪い依存に走ったのと同じように、ある種の憧れのような気持ちを持っていたことから、私も出来ない人になりたかった。(決して出来るわけではないけど相対的に見て努力しない人を指します)

我儘放題で好きに生きて他人を振りまわし、それでも許される人達が羨ましかった。でも私は結局許されることもなく、成りきることもできませんでした。その違いは、あの人達はガチだからだと思う。罪悪感とかそういう類のものがすっぽりと抜けているからなんだろう。勝てるわけない。

今はそうした事に全く腹も立ちませんし欲しくもないので、とにかくこっちに火の粉が飛んでこなければいいと思っている。どんな好待遇でもいいから私に迷惑さえかからなければよい。もっと早く気付いていれば人生はどんなに楽だっただろうとは考えたりもしますが、後半はお気楽に生きられそうなので良しとする。

グダグダと書き連ねてきた不満からくる私の願いたちは、「気にならない自分になる」という思いもよらない形で叶った。相対的に出来ないというか努力しない人達よりも待遇が良くなっただけで、今のような気持ちになれていたかどうかは怪しい。果たしてそれは根本的解決と言えるだろうか。

私は今の結果に大いに満足している。潜在意識は完璧だ。