戯言

今年2月、スピリチュアル体験をしてから、なかなかの勢いで思考が変化しているように感じる。

あの体験は仕事で立ち寄る先の担当者の言葉を受けて、過去がフラッシュバックしたことがきっかけだった。その担当者は職場いじめのような扱いを受けてたんだけど、私は元々その加害者らしき人物が嫌いだったんだよな。どうでもいいことに横から口を出してきて担当者を責める。さっさと処理してくれたらそれでいいんだよ、こっちは。

あれから1か月くらい経った頃だったかなぁ、その加害者をすっかり見かけなくなりまして。コロナの影響で在宅にでもなってるんだろうと思ってたら、どうやら移動したみたいです。ただ移動時期じゃないので、何か問題が起きたのではないかと勝手に想像している。何はともあれ空気がいい。担当者も顔が晴れ晴れしている。良かったですね(棒

 

少し前、ネット上ではポテサラ論争なるものが繰り広げられていた。念のためポテサラ論争とは、惣菜コーナーでポテトサラダを手にした幼児連れの女性が、高齢男性に「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」と暴言を吐かれた現場に居合わせた女性の発信から始まった論争である。

老人に対しての怒りはもちろん、ポテサラを買うのは手抜きなのか、果たしてポテサラは簡単な料理なのか難しい料理なのかという議論まで交わされたようだ。私がこの論争を知った時はだいぶ沈静化してきていて、「そもそも、その幼児は本当に女性の子供なのか」というクソどうでもいい疑問の答えを知ることはできなかった。

なにゆえその子供が女性の子供だと決め付けたのか。もしも「ママ」と呼んでたって実の親子ではないかもしれない。そうなるとポテサラ以前に「母親なら」というワードはなかなかのダメージ。あ、私が言いたいのは「もしそうだったら可哀相」という意味じゃなくて、たまたまそこに居合わせただけのジジイは、その親子の何を知っているのかということです。

もっと言えば、もしももしもその女性の姪甥だったら?母親ですらないのだからジジイの主張は全くの空振りでめっちゃ恥ずかしいんですけど。人間関係のだいたいの問題は「正しさ」が原因なんじゃないかと思う。でも誰が何をしてたって、真実は本人にしかわからないわけで。その時ジジイは勝手に「けしからん母親」を自分の世界に生みだしただけだ。

 

私にはここに書いていない、どうにも許しがたい人物がいた。99%「正しさ」で出来ており、それを他人にも強要してくる女だった。彼女は自分本位な目を通して私を見ていて、その言い分は全く事実とは異なるものでして。何度説明しようとも理解しようとしない。疑うのは勝手だけどものすごく失礼なことなんですよね、それって。…まぁ色々あったのよ。

それが離れてから何年も経つのに、訳あって再び関わる羽目になってしまった。間接的とはいえ、できることなら関わりたくない。勘弁してよ、マジで。とか思ってたんだけどなかなかその時がやってこなくてですね。さり気なく探りを入れると、なんでも直前に重度の鬱病を患ったそうで、話はなかったことになったっぽい。サヨナラ。もう二度と関わることはないでせう。

やっぱり波動が変わると、悪縁って切れるんじゃないかと思いますよ。ポテサラのジジイにしろ、その女にしろ、いや自分の世界を通して見てる現実を本当の現実だと思ってる人全てを可笑しいと思ってしまうんだ。同じ空間にいるのに、違う世界を生きている感。上手くいえないけど、自分の世界に住んでることに気付かない人の言葉なんて聞くだけ無駄だよってことです。

今、私はスピリチュアルに生きてる人にしか興味がなくなってきています。まやかしの現実世界に生きてる人の言葉は戯言だ。