棚卸し

世間様が二極化していく様子に興味深々で、Yahoo!ニュースとコメ欄をたまに覗きに行っていると書いた。今月中旬に相次いで報道された非正規の待遇格差起訴の判決文を読んで、なんというか…心底ガッカリしました。パイを奪い合うような羽目にならなきゃいいけどな。私がコメ欄を見たのはそれが最後になりました。

今まで執着していたことに突然あっさりと興味が失せる瞬間があります。どーでもいいと言いながらしつこく関わろうとするのは、どーでもよくない証拠でもあったりするよね。思い返せば、私と自己愛たちの関係が変わり出したのは、今と同じように拘りを捨てた後だった。

いつだったのかはっきり覚えていません。「許せない」がデフォルトだった私が彼らの言動に興味が失せるということは「許し」のようにも思える。本当に許してしまってもいいのか、そういった葛藤があったような気はしますが、とにかく私は自分の変化を「器が大きくなった」のだと捉えていた。

今まで不愉快だったことに感情が動かなくなっていったからです。もちろん最初は落ち着かないのだけど次第に葛藤も薄れ、共依存のミスの尻拭いさえ苦じゃなくなるという謎の心境。意識的に心を「無」にしているわけでもなく、文字通りどーでもよくなってしまったのでした。これは自己愛に対しても同じで。

その結果、社会的立場は変わらないまま精神的な立場が逆転するという不可解な顛末を迎えている。「言いなり」と言えばわかりやすいのだろうか。自己愛は基本的にマッチポンプ人間なので余計な火種をつくろうとします。それらを阻止できる今は格段にトラブルが減った。物事が上手く回る、コトが丸く収まる=私も周囲も快適だ。

 

私は長い間、過去を悔やんでいました。その中には感情のコントロールができず、あらぬ方向へ暴走して元カレに依存し、迷惑をかけたことも含まれている。だけど本当は薄々気付いていた。依存していたのは相手の方だったのだと。私はそれを言えなかった。なんとなくプライドを傷つけるような気がしたからかもしれない。

でも。もういいんじゃないかな。昨日、アナタが私といた理由を静かに目を見据えて告げてみると、彼は少し項垂れたあと姿勢を正した。心を見透かされるのはキツい。それを言葉に出されるのはもっとキツい。残酷だよな。でも私は「かつて自分に依存していた女と依存されていた男」のままで終わらせたくなかったんだよ。ごめんね。

 

私は今、人生の棚卸しをしているんだと思う。