救いたい人・救われたい人

少し前、業務の人が珍しく早退した。なんでも家族がアクシデントに見舞われたとか。翌日、状況を伝える電話が自己愛宛にかかってきた様子。「こっちのことは心配しなくていい。大丈夫だから、そんなこと言わずにしばらく休め。」と言って彼は電話を切った。この人、変わったな。

「うちの人達はね、いい人ばかりなのよ。だから、ないがしろにする自己愛が許せなかったんだよ。」友達みたいな女性に「なんで、(私)ちゃんはそんなに頑張るの?」と聞かれた時、そう答えた。「ふーん。誰にも感謝されないのにね。」ドライな彼女は理解できないといった感じで、そう言いながらコーラを飲んだ。

あれから4か月が経ち、今度は私がその台詞を言うことになろうとは。

 

昨夜、彼女から電話があった。「元気がない」という。自分のことじゃなくて、周りのゴタゴタに巻き込まれすぎてるらしい。彼女はいわゆるリア充という人種だから、これまで彼女の周りには問題を抱えた人がほぼいないに等しかった。しかし昨年から狂いだした歯車は更に噛み合わなくなってきている。そんな感じがした。

「ほっとけば?」というと「でも聞いちゃうとね。私にできることがあるんなら、って思っちゃうのよ」という彼女。まぁわからんでもないけど、それは自分を犠牲にしてまでするほどのもんじゃないわ。「エネルギー奪われてんじゃない?」って聞く私に「そう!そうなのよ!」と声を上げる。ますますダメだろ。

私は別に感謝なんかされなくても良かったのだ。だから会社の人に限っては、これで良かったと思ってるし、結果的には収まるべきカタチに収まったのでいいのです。ただ、私が誰か他人のために戦うのはこれが最後。彼女の言葉で、その意思は固まった。だから私は彼女にとても感謝をしている。

「私、今は大丈夫だけど、なんだか自分まで引きずられそうで不安」と呟く彼女が巻き込まれているゴタゴタを聞いていても、もう彼女と同じ気持ちにはなれない。自分の人生に責任を持たない弱者は淘汰される。それが宇宙の法則なのだから。

「誰かを救いたい」三次元では崇高な精神に思えるが、五次元では全く正しくない。誰かを救いたいという思いは救われたい人を引き寄せる。でも本当は「救われたい人」を生み出しているのです。「救われたい人」がいなければ「誰かを救いたい」という望みは叶えられないのだしね。

私は誰も救いたくない。だから今の私の周りには「救われたい人」がいない。いたとしても目に入らないだろう。そんなもんだ。うっかり彼女がそっち側に行かないよう、手を繋いでおこうとは思ってるけど。