中庸

先月の今頃、バックが壊れた(修復済)という内容の日記を書いた。翌日なんとなくネットを徘徊していると、私が好きなデザイナーさんのバッグは入手不可能になったことが判明し。「買っておけば良かった」と途端に焦る。

その瞬間、フリマサイトの『未使用品』という文字が画像と共に視界へ飛び込んできて。定価の4割で買いました。しかもずっと悩んでいた色。「お。引き寄せたのかなー♪」なんて思った。

私がそんなことを思ったのは、今の所あれが最後だったと思う。

 

願いを持てない。

正確に言えば、願いを持ち続けることができなくなった。

過去、願いを持てなくなったことは何度かある。投げやり感からだったり、ヤケクソだったり、諦めだったり、手放しと勘違いしていたり、今思えばそんな感じだったかな。

しかし今はどこにも属さない。これが正真正銘の『手放し』というものなのだろうか。

こうなってみて初めて、”願望を持ち続けるには「今の自分」を固定しなければならない”というのが府に落ちる。

 

昨日「心に描く」「感謝」という意味のオイルたちを買ったのですが。初めて買った時はその内容量と金額の見合わなさに頭がグラグラしたものだ。

そもそもサロンだって実質1時間強の施術で、諭吉と一葉さん数人に別れを告げなければいけないのだから、初めてRちゃんに聞いた時は驚きましたよ。

でも人間は慣れる。

慣れというのは、ある意味で「当たり前」に思うことだから、慣れてしまえば対象に渇望することはできない。再び渇望するには失ったり、手に入らない状態に追い込むしかなくてですね。

実際に慣れが怠慢や傲慢さに繋がって災いを生んだり、なにかを失ってしまうなんてことがある。目の前の「当たり前」を蔑ろにし、ないものばかりを求めれば、そうなってしまうのも無理はないのかなと。

いつまでも重要視すれば対象にコントロールされ、軽視すれば対象をコントロールしたくなる。

だから。やっぱり中庸というバランスが大切なんだよ。うんうん。

そのためには『すべてに感謝する』

それしかないのかなって思う。