闇と光

少し前、事務をしている女性から自己愛について相談を受けました。業務や営業の人には媚びへつらうけれど、その人達がいない時を見計らって暴言を吐かれるという。重箱の隅をつつくように粗を探し、些細な事で喚かれるのだと。

これも想定内でした。自己愛は決して反省しているのではなく、我慢をしているだけです。そのストレスをこっそりと弱い者にぶつけて発散しているのでした。この女性の話はまた違う時に書こうと思います。

 

社内の人間関係が二分化している事は以前書きましたが、今はもっと明確に分かれています。この2か月余り、見ているようで見ていなかった間に何があったのか。

私を含むほとんどの社員は、明晰君の入社に関しても明晰君本人にも何の感情も持てませんでした。明晰君というより、もう自己愛の行動や考え方に期待はおろか関心がないのだと思う。一昨日気付いたのですが、雑談中に自己愛の名前を耳にする事がとても少なくなっている。

焦った自己愛はこの二分化を統括しようと”自分なりに”努力をしたのだと思うけれど、彼の思い付く程度の努力ではどうにもならない所まで来てしまっている。もう1年前には戻れない。 

 

自己愛がいる少数派とその他は、客観的に見ると「闇と光」です。この先、表面的な関係が改善する事はあっても精神的には更に拡がりを見せるだろうと考えている。

二分化はしているものの俗にいう派閥とは違い、光の中には利害関係がありません。社内的な上下関係はもちろんあるのだけどリーダーがいないのです。自己愛と敵対する重要な人物を頭にしているわけではなく、そこに居たい人だけが集まっている。

これまで自己愛は邪魔者を排除することで統率を図ってきましたが、これでは手の打ちようがないのです。たとえ光の中から力のある人物を取り込んだとしても、誰も責めないかわりに静かに見送る事になるでしょう。

リーダーがいないと集団はまとまらないのかというとそうではないと私は思う。皆が同じ方向を向いていればリーダーは要らない。むしろ力ずくで自分の方向に向かせようとする人物の方が異質なのです。

強制的に誰かの意見に同調しなければいけない環境は自由とはほど遠い。自由だからといって誰もが自分の意見を通せるわけではなく、皆が「自分の意思で」落としどころを見つけて納得する必要はあるけれど。

 

闇と光の大きな違いはここではないかと思っている。闇は下らない事でマウントを取りたがったり、自分の意見を押し通そうとする。口には出さなくても周りが自分に合わせてくれるのを待っている人もここに入る。

「人と人は支え合うもの」と恥ずかしげもなく声高に叫ぶ、人と言う字の左側にいる寄りかかっているだけの人。しかし、人という字は本来ひとが腕を垂らして立っている形を表していて、一人で立って歩いていくものいう意味です。

もう人は一方的に寄りかかられる事に疲れてしまったんだ。それに気付いて軌道修正した人だけが光の方へ歩いていけるんだと思う。

そして我慢は軌道修正とは大きく異なる。光の方へ行けずに闇に留まらなければならない人達が奪い合いを繰り返すことになるのは明白です。

 

私は自分の心の位置を確認する為に自己愛を観察し、1つの指標にしている。この行く末を見届けたい。