私は他人に対しての関心が薄くなりましたが、むしろ今まで他人を軸に生きてきたので丁度良くなったのではないかと思っている。リアルでは自分に害がない限り、たいていの事は「そういう考え方なのね」と流せるようになった。

外へ出て色んな人間と関われば、嫌でも非常識な人や無神経な人に遭遇する。そういう人にいちいち腹を立てたり感情を乱すと自分が損をするだけだ。当然理不尽な目に遭うこともありますが、異世界の人だと思ってスルーしている。

これまで私がイラついていた原因は他人に「こうあるべき」を期待していたからなんだろう。自分は正しい、相手は間違っているという認識があるから腹も立つ。しかし何が正解なのかはわからないし、正しくても間違っていても最終的にその責任を負うのは本人なのだから大切な人以外に労力を使うのは無駄です。

なので他人に対して否定的な感情をあまり持たなくなりました。逆に考えれば全てを受け入れているとも言える。そのせいか格段に人間関係が好転し、生きやすくなった。私は普通の人の中に馴染めなかったせいで行き場所を間違えた揚句に、普通じゃない人に普通を求めたのだから生き辛かったのは当然の結果なのだけど。

心に欠損がある人はよく”穴の開いたバケツ”に例えられる。垂れ流しなのだから常に誰かに与えてもらう事でしか満たされない。自分を満たすとかいきなり上級者を目指す前に、まず穴を埋めなければなりません。そしてその穴をふさぐのは自分自身であり、自分を愛することが一つの方法なのだと思う。

自分を愛し自分の機嫌を自分で取れるようになると、本当に他人の存在が薄くなる。無意識に他人に要求していたものが減り、欲しい時にそれが手に入るのだからストレスフリー。その上、私も求めないからあなたも求めないでねという強気の姿勢でいられる所も良い。

 

自己愛を取り巻く環境が変わり始めたのは今月の上旬だった。例のごとく取引先に伝え方を誤ったせいで大きなトラブルへと発展した。自己愛は今の小さな世界の中では割と力のあるほうだから、その言動にも我慢してやり過ごす人がほとんどなのですが、今回はそういうわけにはいかなかったようで。

その件は間もなく収束したようですが、他の会社からも遠回しではあるが「自己愛への協力を断る」という残念な申し出がありました。それらに因果関係はないように思うけれど、他人から見て自己愛の価値が下がっているのは間違いない。おそらくこれまで、こうした経験がないであろう自己愛は明らかにダメージを受けていた。

以前も書いたと思うけれど、私は自己愛のように必要以上に必要とされたがる人が嫌いだ。たいした価値もないものを他人に押し付けて、且つ言葉巧みに価値を吊り上げようとする。こっち側は寧ろ迷惑をしているというのにお礼まで強要し、お手軽に優越感を得て承認欲求を満たそうとする浅ましさが心底気持ち悪いのです。

なぜそれを迷惑だと言えないのかというと、相手が傷付くだろうという思いやりがそうさせるのですが、本当はたいしたものは得ておらず搾取されているのだと気付いた人から流れは変わっていくのだと思っている。自分にとって価値のあるものを正直に選択しようという方向へ向かっている今、選ばれなかった物は淘汰される。

淘汰されるとは言え、そういう人は同じ種類の人達と生きて行くのだから、別に孤独になるわけでもない。ただこれまでのやり方が通用しない場面に遭遇することは多いかも知れませんが。

話しは戻りますが、自己愛はそこから抜け出そうとしているかのように見えた。しかし私は絶対に抜けることは出来ないと確信している。それを引き戻そうとする強力な人物がいるからです。言わずと知れた共依存者を構う人がいなくなった今は、自己愛しか残っていないのだ。

そこを心理的に切り捨てることが出来なければ光の方へは行けないのですが、いかんせん相当な時間と努力が必要になります。承認欲求と自己顕示欲に取りつかれたモンスターは他人がいなければ生きていけませんから、受け入れてくれるところへ戻る。というかそこしかないからどうしようもない。過去の私のように。

今、私は自己愛達を好奇の目で見ている。他人の手を借りず、自分の心の穴を自分で塞げば何もせずとも愛で埋まっていく。穴の開いていない人達は互いに満たし合って生きているというのに。おそらく一生を理解しないまま人生を終えるのかと考えると笑いがこみあげてきます。

そしてそれは私の家族も同じだ。私はなぜあんな歪な家庭に放り込まれたのかと考えてみた。多分だけど私は前世で家族と同じように生きていたのだと思う。しかしそれは人の道から外れた生き方だと知る為にあそこへ生まれたんだと思っている。与えるだけでも与えられるだけでも不幸なのだと身を持って理解するためだったのではないかと。