正論

先月末近くから、再び過去に対しての怒りが再燃した。相手にではなく、何も言えなかった自分に対して、である。そこで私は記憶を遡り、当時私が思っていたけど口に出せなかった言葉を相手に浴びせてみました。あまりにも汚い内容なので詳細は書きませんが。

それを数日続けていると、突然アホらしくなって「もうどうでもいいか」という気分になってきた。私は意識的に過去を書き換えようとしている。記憶が意識を造るのなら、記憶を変えれば絶対に意識は変わると考えているからです。他人から受けた言葉や態度で私達の記憶はいっぱいだ。だけど本当に残っているのは自分が感じた感情の方なんじゃないか。

しかし起こってしまった記憶は消しにくいので、当時の自分の意識を変えた方がいいのではないかと思いました。過去の意識を変えることにより、未来である今にどんな影響があるのか知りたくなったというのもある。

そんな中、会社の人から突然に「前から思ってたけどセンスがいいですよね。お洒落」とお褒めの言葉をいただいた。有難いのはもちろんだけど、私が引っ掛かったのは「前から思っていた」という所である。ということは私をそう思ってくれていた意識はずっとあったけど私には知覚できなかったということです。

今度はそれについてずっと考えていましたが、結局出た答えは「全ての事を認識できているわけではない」。当たり前ですが、寧ろ認識できていないことの方が多いように思う。私達は目や耳にした情報から認識を作っているけれど、それすらも不確かなものだ。

人間相手の場合、感情が複雑に絡み合うので不確かさは増す。特に男女の間に起こる、愛されているか愛されていないか問題なんて受け取る側の意識の中にしか正解はない。何をもって愛されているかなんて全て自分が決めているのだから。これは潜在意識の達人と呼ばれる方も散々書いていることなのだけど、今はとてもすんなり納得できる。

例えば男性と道路を歩いていて、女性に歩道側を歩かせて自分が車道側を歩くというアレ。少なくとも私の周りでは好きかどうかは関係なくそうしない男性の方が少ないので、一種の習性みたいなものだと認識している。だけど好意を持った瞬間にそれは優しさへ変わり、大切にされている感すら醸し出すように自分次第で捉え方は変化する。

頭で書いた私の過去すらそうだ。「傷付くだろうから言えない」は本当にそうだったんだろうか。もしかしたら傷付かなかったかも知れない。いや確実に傷付いただろうけど、傷付いたフリをする可能性の方が高い。しかし無意識に自分が望んだ言葉だったかも知れないのに。

と、まあこんな事を考えている間に気が付けば1週間以上が過ぎた。意識(頭)を使いすぎてぐったりしていたのだけど、なんか気が晴れました。今日は新月だからですかね。

私はこの先、ある種の人達の気持ちを慮ることはないように思う。昔メサコンに「正論は人を傷付ける」と言われました。しかし残念ながら全ての人が傷付くわけじゃありません。正論を叩きつけられる状況を作らない人の方が圧倒的に多いというのに、どこかで聞きかじった言葉で世間の代表者みたいな顔をするな。と言ってやりたい。

私の言葉に傷付くなら近寄ってこなければいい。このスタンスを前面に押し出して生きてみて数日。私は自由を実感しています。