選び直す

あと数日で新月を迎えます。このひと月余り、色んな事を考えすぎて脳がいっぱいいっぱいになったのか、薄い靄の中で生きているような気分だった。現実感が全然ありませんでした。

少し思考がクリアになってきてわかったこと。潜在意識系では、手放しと諦めは同じだと言う人もいれば違うと言う人もいる。諦めれば願いが叶うと言う人もいれば諦めたから叶わなかったのだと言う人もいる。

結局これらも認識の一つであり、自分が無意識に採用した認識が当てはまるのだと思う。よって人によって差があり、正解はないのだと考えています。

私は全ての願望を諦めた。以前、諦めたら願いが叶ったという日記を書いていますが、あの時の諦めと今の諦めは違うような気がする。過去の諦めは、執着しまくった揚句に投げやりになり、どうでもよくなってしまったと記憶している。欲しくて欲しくてたまらなかったのです。

今回は何か特定の物を諦めたのではなく、願いを叶えることを諦めたのです。今の私は仕事も余裕で、会社に行けば特に頑張る必要もなく給料が入り、人間関係も極々一部を除き良好だと言える。悩みがないからこそ、目の前に人参をぶら下げていただけなんだろうか。

諸々の願いに思いを馳せることがなくなったので諦めたと書いているけれど、それらはまだどこかにあるのかも知れない。執着もしていないが、どうでもよくなったわけではない。顕在意識から消えただけのようにも思える。この状態を手放しというのか、それすらも今はまだわかりません。

 

私は最近、家族といた頃の事を思い出していた。私は家族の中で浮いた存在だったのですが、そんな私を養女にしたいとか息子の嫁にしたいというお話が少なからずありました。そうしたお家は私の家とは違い、今考えてもマトモな家庭だった。

その類の話に兄弟の名が出ることはなく特別扱いだと感じたのか、家族の態度は冷ややかなものだった。父は蔑むような目で「どうしてお前なんか」と薄ら笑いを浮かべた事を私はすっかり忘れていたのです。

他の家族を選ぶ事は私にとって裏切りだと思っていた。与えたら与えるだけ奪われて、全然大切にされていなかったのに、それでも家族を選んだのは私だ。あの時、選択を間違えなければと後悔しているのではありません。私は今でもその呪縛から抜け切れていないのかも知れないと感じていた。

 

先日、鬱病の彼からまた連絡があり、彼は死を口にした。私はスピリチュアル的に自殺はよくない事だと考えていたけれど今は違う。自分の命なのだから好きにすればいいと思いました。自分自身も最近望んだことですし。

けれどそれを口に出してはいけないのだ。法律があるから。かといって「そんなこと言わないで」とも言えなかった。以前も書いたかもわかりませんが、私と彼はそんなに親しい間柄でもないし、信頼関係があるわけでもない。そんな程度の他人にどんな言葉を望んでいるんだろう。

少し時間が経って、彼に感じている言いようのないモヤモヤは記憶の底の家族を思い出させるからだと気付いた。彼は無意識に私に罪悪感を抱かせようとしている。おそらく「愛されたい」と彼は願っているのだろうが、それは脅迫とも取れると私は思う。

人の善意に付けこむ行為は相手を大切にしていると言えるのか。大切にはしないけど自分は愛される価値があるとでも思っているのか。もしそうなら何故あなたは脅迫まがいの事をしてまで愛を求めようとするのか。矛盾だらけである。

私はこんな類の人達を大切にしてきたんだと思うと心底情けない。しかし大切にしてくれる人を遠ざけ、裏切ったのは私。それを自分が選んだのです。

けれどそれは過去の事で、今から再び選び直せばいいのだ。図らずも彼のお蔭で、一つの区切りを迎えられそうです。