選ぶ

私は家にいる時はもちろん、移動中の車の中でもシークレットを観ている。全ての願いを手放したのに、引き寄せの法則に改めて興味を持った理由は、どんな状況でも幸せに生きられる基本的な考えではないかと思うからです。

私たちは自分の思い込みの中で生きている。そして思い込みは世間や他者からの刷り込みによって起こる場合が多いと考えています。消費税が上がるとしばらくは抵抗があるけれど、いつしか当たり前になってしまうように、良くも悪くも人間は慣れる。

私は今の社会が情報に踊らされているように見えるのです。それは昔から変わらないだろうけど、情報が簡単に入りやすく、且つ多すぎるからだ。

私の嫌いな言葉に「貧困」という単語があります。詳しくは知りませんが年収によって貧困層だとカテゴライズされた人達は、それを望んでいたんだろうか。これまで普通に生きていた人達に「自分は貧困層だ」と新たな認識を植え付けることに何の意味があったのか、と考えてしまう。

それらは知らず知らずにじわじわと無意識に浸透し、不安を煽り恐怖を生む。その先はどこへ向かうのか。こんな時代だからこそ、流れ込んでくるままにせず思考を自分で選ばなくてはいけないと思うのです。他の人は知らないが私は。

 

自己愛はどうやら本気で何かしらの危機感を持ったようで、自分の意志をコントロールするようになった。それでも根本的なものは簡単に変わるわけではありません。頻度はめっきり減ったものの、ただの凡ミスか嫌がらせか判断しがたい微妙な厄介事はまれに起きる。

私は仕事に対しては真面目だったので、買い物に立ち寄る程度を除いて営業中にさぼった事がほとんどありません。罪悪感を感じるからです。でも自分の時間が圧迫されない程度に色んな場所で楽しみを見つけるようになった。

シークレットでは「いい気分を保つ」ことが重要だとされていますが、もちろんこういう意味でのいい気分を推奨してはいない。しかし、私は仕事をさぼる事によって自己愛の厄介事をさらっと流せるようになりました。

以前の私なら「また嫌がらせだ」「またミスを押し付けられた」と怒りを覚え、記憶の中で過去のトラブルまで持ち出して怒りを増幅させていただろう。だけど楽しい場所があると、たとえ二度手間になろうとも再びそこへ行ける嬉しさの方が勝つ。「ありがとうございます」と感謝したいくらいだ。

その後、思考はどうなるか。怒りを感じるといつまでも残るのに対し、感謝した場合は厄介事すら厄介事でなくなる。つまり記憶に残らないから、同じ出来事でも考え方次第ではなかったことに出来るのです。

嫌いな人の事をだらだらと考える時間は有益だろうか。それらは無意識に脳内で何度も再生されて実体化する。だからいっそのこと「思考を止めろ」と、達人たちは口を揃えて言っているのです。

ネガティブな思考を垂れ流すのを止め、置き換えられるものは自分の思考でポジティブに変える。シークレットを知って2週間程度ですが、常に思考を選択し続ければ「私はいついかなる場合も幸せでいたい」という望みは叶うんじゃないかと考えています。

 

余談ですが、シークレットのDVDに出演している方の中で、逮捕者が数人出たという情報を見かけました。だからといって内容まで否定するつもりはありませんが、欲に呑み込まれると駄目ってことですかね。