逃げた人

前回の日記を書いてからも靴を買い続け、気が付くと20足近くも購入してしまっている(爆)

今月上旬は買い物の事で頭がいっぱいで習い事もおろそかになりがちでした。行動の変化は楽しくてもストレスが溜まるものです。そして古い思考と新しい思考がないまぜになり、時にふさぎ込んだり急に活動的になったりを繰り返しながら今に至る。購買意欲の落ち着きと共に、自分自身も少し落ち着いたように思います。

この買い物の仕方は以前も経験があるなと考えていましたら、私は約1年前にもジュエリーに嵌っていました。あの頃と違うのは私の中に他人がいない事です。今私が買い物をする時、良くも悪くも他人からどう思われるかと考えることはありません。ワタシが嬉しいかどうか、ただそれだけです。

常に他人の視線を頭に浮かべ、誰かが望む(であろう)自分でいなければ生きていけないんじゃないかとすら考えていた日々を振り返り、つくづく馬鹿だったなと思う。どっちに行くかという過去の日記を見て、私は完全にとまでは行かなくても”そっち”に来られたのだろうかと考えたりします。

その日記の中でも他人の事を考えないと書いてありますが、それは過去と比較してであって、まだこの頃は他人に興味があった。今も全くないわけではないですが、人より自分といった感じか。他人に興味がないというより他人の感情に興味がないと言った方が近いかもしれない。

人は生まれ持った性格ももちろん関係するが、大半は過去の記憶によって形成されていると私は考えている。例えば私は自己愛との戦いを書き綴ってきましたが、自己愛の怒りは今の私に向けられていたのではありません。何かが引き金となり、過去の記憶の中にある未消化の怒りが再燃しただけのことである。

自己愛だけでなく私自身も多々この経験はあって、目の前の出来事と過去の記憶を切り分ける作業はとても大切だと思っている。ただ頭で理解することと実践は大きく異なり、過去と向き合うのは結構きつい作業なので、その厳しさ故に向き合うことから目を逸らすのだろう。

この2か月無意識ながら葛藤している間に、私の中で人のカテゴリーが極端に変化したと感じていた。明らかに目に見える差とかそういうものが一切なくなったのですが、替わりに入ってきたのは『向き合う人』か『逃げた人』かということなのだと思う。(書いてて気が付いた)

私は舐められやすく、心無い言葉を簡単に投げつけられるような人間でした。でも徐々にそれらは変わっていき、今では自己愛ですら媚び諂うようになった。推測でしかないけども、おそらく今の私は自信がみなぎっているからだ。

私は他人の感情を受けやすい。相手が必死に隠そうとしている弱さや何かしらの劣等感が見たくなくても見えてしまう。ただそれを指摘したりあげつらうのはヒト科として如何なものかと思うので知らないフリをして生きてきましたが、無礼には無礼で返せばいいと今は考えている。

以前に「あんたなんか」と言われることが多いと書いたけれど、『逃げた人』にそんなこと言われたくない。実際に無礼で返すかどうかはわかりませんが、きっと今なら薄ら笑いを浮かべてしまうだろうと予想する。それらは私にとってただの雑音でしかないし、自分の言葉に影響力があると信じている思考こそが傲慢なのだと言い放ってしまうかも知れません。

それでいいのか?いいんだと思う。私は『逃げた人』に興味がない。