未知の世界

石の話は一旦置いておいて、ちょっと今の現状を書いておこうと思う。

やさぐれ気味だった8月頭から、私と自己愛達との関係は大きく変わって、表向きはとても良好です。私と彼らの心の距離があまりにも離れてしまったからか、馴れ馴れしく話しかけられることもなく、寧ろ敬語を使われるという良い距離感を保っている。

とにかく私は人に興味がない。というか人に限らず、自分がコントロールできないことを考えても無駄だ。他人に期待もしないし、いっぱしの大人なのだから自分の面倒はそれぞれ自分で見ればいいんだよ、と思っています。

ただ別の問題が発生している。私は人への興味と共に仕事への意欲も低下したのですが、その後を追うように自己愛まで私が担当している仕事への興味を失くしてしまったようなのです。一体なんなの。

そもそも自己愛のパワハラは顧客にないがしろにされているという下らない被害妄想から始まっている。なら私は極力身を引いて石の事でも考えておくから、あなたが表に立てばいい。そう願っているのに、自己愛まで身を引いたら仕事が宙に浮いてしまうではないか。役に立たないなぁ。

とはいえ自己愛は他の仕事にのめりこんでいるだけで、仕事をしていないわけではありません。ただ、これまで私とやってきた仕事がおろそかになっているだけです。そのせいで私は先月から顧客に頭を下げっぱなしなんだよ。それでも私の心に波風は立たない。

8月はほぼネットをしながらダラダラと過ごしていたのですけど、私は誰のコメントを読んでも共感できないことに気付いた。老後資金2千万問題もタピオカランドがしょぼすぎることも、私には何の関係もないのです。心に入れるものは精査しなければいけません。

 

前回、石の話で愛するとか愛されるとか書いていますが、具体的に誰か、たとえばIさんとかに向けてるんじゃないの。Iさんは私の中で大切なメンター的存在になり、性の区別を超えてしまったようです。愛し愛される人はIさんであってもいいし、そうでなくてもいい。いなければいないでもいい。

強いて言うなら一番愛し愛されたいのは自分。自分に出来る限りの愛を伝え、自分を大切にする行動によって愛を表現する。その波動で周りにいる誰かが幸せになればそれでいいんじゃないかって。他人に労を費やさなくても愛を与えられるならとても合理的だ。

 

先日、ある男性から結婚を持ちかけられましてね。もちろんプロポーズとか仰々しいものではなくて、パートナーとして生きるのはどうかというお話。知り合ってからは随分経つものの彼は私のことを何も知らないから、当然真に受けてはいない。ただ、『パートナーとして生きる』という未知の世界に興味は湧いた。