渇望できない

私は人に興味がなくなったと書いてますけど、厳密に言うと自称不幸な人に興味がなくなったのだ。幼い頃から自称不幸な人の顔色を見てきているせいで、私の視界に優先的に入るのはそういう人達だった。幸せな人の顔色を見る必要はないので、私の世界にいる人間=自称不幸な人ということになる。

顔色を見てきているせいというのも疑わしくて、本当は私と同じ人間を欲していたのだと思う。『世界=自分』ってこういうことなのかも知れない。その意味はまだよくわかっておりませんが、私は意識を変える為に頑張ってきて良かったと本気で思っている。先週末に再び潜在意識のまとめを読み返していて、なるほどと思ったこと。

男性性と女性性について。仕事中は男性性が優位で私生活はダメダメの女性性を持っている自分。私生活で男性性を持つことがなかったから(過去にはあったが消した)、なにかと他人に頼らなければならず、依存というおかしな方向へ向かってしまったのだ。

 

私の男性性は仕事や人間関係に使い切ってしまって、本来自分に向けるべきエネルギーが残されていなかった。今は外に向けていたエネルギーを全部自分に向けていますけど、外がどうでもいいのだから向けるところがそこしかないというのもあって。とにかく私の中には確実に2つの人間性が存在しており、自立しきれない女性性を男性性が支えている。

言葉にすると意味がわからないと思いますが、私生活ではパニックに陥りがちな女性性をもう1人の男性性が落ち着かせ、機転を利かせてフォローしているという感じ。なので余計に他人を必要としなくなったと言えます。もちろん自分だけで全て解決できるわけではないし、他人を頼らなければならない場面もある。しかしそれは「お互い様」という自立した人同士の協力だ。

潜在意識まとめから抜粋したかったのだけど、いかんせん情報の量が多すぎてまとめられないのが残念ですが、現在の私の状態はどうやら自分を愛しているっぽい。確かに私は今の自分が好きですし、もっと幸せにしてあげたいと思っている。

私はいわゆる「ダメな人」に尽くしてきた人生だったけれど、さっさとそこから手を引いて自分に尽くすべきだった。そのどうでもいい他人を支える力を誰よりも望んでいたのは自分自身だったんだと。引き換えに私の女性性は邪険に扱われ、余計な存在として蔑ろにされてきたのだから。酷い。

今、あるんだかないんだかわからない他人の愛より自分の愛の方が大きいという絶対的な自信を持っています。その上私の男性性は無駄に合理的なので、その方が手っ取り早いという理由もあります。(その割に長い長い時間が掛かっているので合理的の意味を間違えている可能性は多々)

ただ、他人からの愛なんかいらねー!誰も愛さねー!などというやさぐれた思考ではないことは強調しておきたい。あってもいいし、なくてもいいのです。ダイヤだっていくつあってもいいじゃん。でも既にあるんだから、手に入らなきゃ入らないでいいしね。既にあるものを渇望するって案外難しい。