超える

あまりにも疲れすぎたので、思考を止めてダラダラしていた。

新型コロナウイルスとやらの類はG(自粛)と一緒で、一人感染が発覚すれば既に相当数の感染者が潜んでいると考えるのが当たり前だと思っていた。そんな中でも「自分の地域は大丈夫」だとイベントを強行したり、下船までのタイムラグがありながら陰性の方を検査もせずに放流したりするエライ人達に呆れて笑ってしまう。

私が”お手手繋いでゴール”への危機感を他人に話したのは確か7~8年前、タクシーの運転手と熱く語り合ったのが最後だったと思う。2割の不平不満ばかり吸い上げた結果、10年にも満たない内にこんな国になってしまったのだと私は考えています。今後、日本国民の生活は大きく変わるような気がしている。

再び氷河期のような時代が来るのか、それとも二度と這い上がれないのか、はたまたただの杞憂で終わるのか。それはわかりませんけど、私はこの時点までに「人生の棚卸し」とも言えそうな、自分を知る作業を終わらせていたのはとてもタイミングが良かったと思っています。

幼い頃から家族のお世話係をしてきた私には頼る人がいなかった。その不満が依存という最悪な形で噴出したため、自分で自分を育て直すという結論に至ったわけですが、悪い部分だけを切り取れば元の自分に戻る。私は好き好んでお世話係をしているはずもなく、生きていくために仕方がなかったのだ。そう思い込んでいただけかも知れないけど。

そして現在、その必要がなくなった今は他人の必要性を感じない。私は基本的に平和主義なので、相手から危害を加えられない限り穏便に生きていける。過度に他人に期待しない人との間には、普通に過ごしているだけで揉め事もトラブルも発生しない。そこは優しい世界です。和を乱すのはいつだって自称不幸な人だ。

「自分の人生は自分で背負え」と似非弱者を切り捨てられる理想の自分。まぁ理想ですけど、現実には厄介事が増えるだけなので口には出せない。それでも心の中では完全に線を引いています。

愚痴を聞いているこの瞬間、あなたは間違いなく私の足を引っ張ろうとしている。愚痴を言うのが悪いとは言わないが、せめて相手を選べよと。他人の波動を下げようとする行為は不幸な人を作り出すということです。つまり「他人にも不幸でいて欲しい」という、極めて自己中心的な思考ですね。同時に「私はこれからも不幸です」という宣言でもあり。

自分がそう決めたのだから不幸なのは当たり前。嘆く意味がよくわかりません。なんか。超えましたかね笑