ダイブ

不幸にはメリットがある。かつての自分もそうだったように、被害者には権利があると考えている人が多いと思う。私に一番最初にそれを教えたのはもちろん母だ。弱者でさえあれば誰かが何とかしてくれる、いや何とかする「べき」だと本気で考えている。

不幸の真ん中にいる人は、そんなことを望んでいるわけない、幸せになりたいと本気で思っているだろうが、それは顕在意識の話であって問題は潜在意識の方だ。まずここを認めるのがとても難しくて屈辱的でもある。

私は人生の被害者から抜け出したいと願い、ようやく自分の思う最低ラインまで辿り着いた。今は不幸にメリットなんかないと確信していますが、潜在意識にこびりついた不幸のメリットを捨て去って、幸せのメリットを数えるようになるのは容易ではありませんでした。

「誰かが何とかしてくれる、何とかするべき」どう感じるかは本人の勝手ですけど、それは結果も他人に委ねているということだ。だから本来はどんな結末を迎えようと、文句を言える立場ではありません。仮に言ったところでどうにもならないものはどうにもならない。受け入れられなくても、そうするしかないのです。

 

いざ自分が逆の立場に立って物事を見た時、他人任せの人生を送る人はとんでもなく面倒くさい。そして弱い。甘い顔をして近づき、目の前に餌を吊り下げれば簡単に落ちてしまうだろうという脆さがある。今私がもし誰かを騙すなら、間違いなく不幸な人を選ぶ。

反対にいま幸せな人は他人に何かを渇望することはない。過剰な期待もしないし、とにかく他人に対しての要求が少ないのです。要求が少ないから気持ちの上で損したとか裏切られたと感じることも当然少ない。そもそも不幸の種を撒いていないのだ。

私は現在、誰かのせいで不幸になったという現象を全く信じていない。必ず自分にも原因がある。ただ、それが善か悪かは左程問題ではなくて、本人にとっては間違いだということ。他人を見捨てないのは世間一般的に善人だろうが、そのせいで自分が潰れてしまうなら善人ではない。こういう場合の原因は自分の能力を過信し過ぎなんだろう。

自分の人生に責任を持つって怖い。誰のせいにもできないって拠り所がないってことだもの。だけど精神的に自分の足で立つメリットを知れば、不幸のメリットなんて皆無だと気付く。私は自分の心がシーソーのように両方のメリットがフラットになる様子をずっと観察していた。そして幸せ側に傾いてからはとても速かったと思う。

不幸な人が一発逆転で幸せになったりもするのを見ると、正負の法則で良い事と悪い事のバランスが取れているように錯覚したりしがちだけど、あれは関係ないんじゃないのかな。「いつか自分も」と安易に考えるのは危険だ。自分の問題は自分だけのものだから、他人と同じ人生を歩めるはずがないんだよ。

『いま幸せ』ってこういうことなんだとぼんやり考えてみたりします。「いま幸せ」になると、幸せを願ってる今が永遠に続くんじゃないかという恐怖が先立ってしまって、とてもそこに飛び込むことはできなかった。結論を言うと、飛び込んでよかったと思っている。