線を引く2

今の自分の状態が精神的自立と言えるのか、それとも共感力が低くなった=退化しているのかどうかはわからない。しかし「アナタが望んだこと」だと、きっちり線を引けるようになった(戻った)のはいい事だと思っている。

必要以上に同情や共感をしない。この辺りが「冷たい」と言われる理由だったのだと思いますが、今なら「はいはい私は可愛げがなくて冷たい女ですよ」と流すだろう。私の思う普通の人からは寧ろ可愛いとか優しいとか言われるので全く問題なし。

当たり前の事だけど、たとえば障害のある方が一人で車椅子を車に乗せようとしていれば声を掛けたりする。電車やバスは滅多に使いませんが、お年寄りがいれば席を譲る。断られても、その人には必要がなかっただけなので凹まないし、声を掛けるのをやめようとも思わない。

しかし私のことを冷たいだの可愛げがないだのという人は、そんなのを優しいとは言いません。そこはどうでもいいから自分に与えろと言っているのです。気持ち悪いですね。私の思う普通の人達は、たとえ自分に与えられたものでなく、他人に向けられたものでも「優しい」という評価を下す。

それはなぜか。普通の人は赤の他人でも誰かが助かったり喜んだりすることが嬉しいからだろう。反対に属する人は一言で言えば『他人の幸せが許せない』人だと言っても過言ではなさそうだ。他人が幸せだからといって何の関係もない自分が不幸になるはずなどないのに、なぜか不幸だと感じてしまう謎。

現実に損害を被ることはない。チョットレイセイニナレヨ。ではそれはどこで生まれているかというと自分の中”だけ”で発生しているのです。こういう目線で人を見ていると、とても滑稽ですよ。自分は何一つ変わっていないのに勝手に幸不幸のボルテージが上がったり下がったりしているのだから。

普通の人達の集団は優しさが伝染する。「そういうの見習おう」とか当たり前に言いますから、魂が底上げされる感じがする。ここへ反対派が一人混じればケチをつけたり自分の方へ話題を向けようとし、一瞬にして和を乱される。皆の優しさを独り占めしたくなるのかも知れないが、基本的に人から奪うことしか考えていない。

過去の私はこういう状況に遭遇するとなんとなくやり切れなくなってしまうので、どうしても反対派に目を奪われてしまっていた。これではもう自分から「ターゲットにして下さい」と立候補しているようなものなので、気付けば反対派に囲まれるのも当然の結果だったのです。

反対派については、上記のような行動を取れば次第に距離を置かれるのも無理がないので、孤立しようがどうなろうが「アナタが望んだこと」としか今は思いません。奪おうとする人を避けるのは人間の防衛本能として当たり前。バウンダリーを引くのは冷たいことではありませんから。

 

先日、中学生の子供が友人を殺傷した事件がありました。今出ている情報だけを見ると、つねられたり教科書を隠された程度で人を殺そうと思えるのかというのが率直な気持ちだ。しかし私にとっては「その程度」だけど本人は耐え難いものだったのかもしれないと考えると、どちらが悪いか(罪の重さとは違う意味で)という判断がつかない。こうなる前に距離を置くことができたなら何かが変わっていたのかなとは思う。

私は全ての人がバウンダリーを引ければ不毛な争いは減ると考えているので、境界を引けない人と距離を置くことに罪悪感を持ちません。自分の人生に責任を持つのは当人。「アナタはアナタで幸せになってください」と送り出すのだから相手を尊重している証拠なのだ。

しかしそれでは困る人が必ずいる。それは他人の軸で生きている人です。批判であろうと賞賛であろうと何かしら他人からアクションを貰わなければ立ち位置がブレる人達。

線を引ける人は無駄に不特定多数の他人に興味を示さないような気がする。線を引けない人同士が他人の評価をし、他人に評価されながら生きることになるが、おそらくそこは平和とは程遠いように思う。

同じ地球にいながら見ている世界が全く異なる様、二極化とは貧富の差ではなく波動の高さだと言われてきた理由。アセンションとは結局こういう事だったんだろうか。