究極の自由

今回の大掃除の際、去年の10月にブレインダンプをしていたノートを見つけた。この頃も掃除が出来ない事について再び書き殴っていたのですが、出来ない本当の理由は別にありました。

私は一人でいて”寂しい”という感情を持った事がないと以前に書いたような気がする。何もすることがない部屋で今の自分を客観的に見た時、私は”寂しい”という感情を持ってしまうんじゃないだろうか。もしそうなったら耐えられないかも知れない。心の底にはずっとその怖さがあった。私が恐れていたのは「孤独」を感じることだったのだ。

ところがその心配は杞憂に終わり、恐れていたこととは全く反対の結果になった。他人に興味がないという思考が一気に加速度を増すことになりました。今私が一番必要としており、一番大切なのは自分自身。それ以上に大切な人なんていない。

私を綺麗な環境に置き、凹んだ時も気分を立て直してくれるのは自分自身だ。だから更に他人の必要性を感じなくなってしまったのです。汚れた部屋の中にいた時は掃除がネックで恋人が作れないとか思ってたくせに、例え恋人であろうと他人のために時間を割きたくないとさえ思ってしまう。私は私と居たい。

多分だけど、私はそうした自分の気持ちを隠し切れていない。GWが明けてから他人からの態度が更に変わったように感じるからです。詳しくは書きませんが、舐められてるなと思ってた人がすごく低姿勢になったりというような。どっちでもいいのにね。

 

暴落した株は半分まで戻したけれど、嫌なことは続く。昨日今日と共依存者の尻拭いをさせられたお蔭で悪夢のようなメサコンとの日々が蘇り、怒りはマックスまで達しています。ここにその日々を書いた時、私は怒りと同時に自分が変われば彼女と上手くやっていけてたんじゃないかという考えも持っていた。どこからそんな思考が湧いてきたんだろう。

善人になりたかった私はこれまで、仕事が出来ない事にコンプレックスを抱えている共依存者を直接責めた事はありません。きっとちゃんとした大人になりたかったんでしょう。だけど今はそんな気なんて更々起こらない。今日は言い訳を途中で遮って追い払い、あとは無視しておいた。いつまでも甘えてんじゃねーよ。

メサコンと過ごした日々との決定的な違いは、他の人が自分の味方である所だ。私はつい「●ねばいいのに」と呟いてしまったのだけど、皆一様に頷いていた。しかし私は見方がいなくても構わないと思っている。人に迷惑を掛けるってすごく罪なことなんだよ。そういう人は何を言われても仕方ないの。故意の場合は、だけどもね。

私がなぜこのタイミングでメサコンを思い出したのか。それはきっと古い自分と新しい自分が共存しているからだと思います。メサコンなんかの気持ちを慮ろうとした自分が大嫌いだ。母に似たメサコンを見捨てるのが怖かった。家族に似た人に受け入れて貰えれば自分を好きになれるかも知れないなどと考えていた自分はもう要らない。

 

私はIさんの事を考える時間も少なくなった。好きかどうかも最早わからないくらいだ。だけど彼の存在は相変わらずとても大きい。Iさんは勘の鈍い人が嫌いで、あまり仕事が出来ない人には冷たい人です。今の時代、パワハラだなんだと繊細チンピラが煩そうですけど、私は彼をおかしいとは思いません。

”誰かに認めて欲しい”そんな気持ちはなくなってしまいましたが、もし強いて誰かの名を挙げなければならないとしたら彼以外には存在しない。それ以外の人は今の私にとってあまり意味がないです。

失いたくない人がいない人生。私は今、とてつもないエネルギーが漲っていると感じる。孤独って究極の自由だよ。