一つの車両

以前働いていた会社には、唯一の味方ともいえる人がいた。違う営業所の先輩ですが、いい意味でのライバルでもあったと思う。

私は当時その方に悩みを打ち明けたけれど、メサコンをはじめとしたイカレた人達は巧みに自分を被害者に仕立て上げるため、理解してもらうことはできなかった。却って私の方が厳しすぎる、神経質になりすぎているのではないかといった意見をもらった。

私が会社を辞めてからも心配して何度か連絡をくれたが、彼女の声すらPTSDによるフラッシュバックを引き起こす原因となりました。その後、私の穴埋めに入って事態を把握した彼女から、「あの時わかってあげられなくてすみません」と謝罪を受けたのを最後に彼女とは会っていない。

 

その彼女と昨日、数年ぶりに会いました。彼女もその後まもなく会社を辞めています。私が辞める寸前に入社した普通の人間だと思われる方はもれなく退社し、人間不信に陥り精神を病んだのだと聞いた。ヒト科は自分が当事者にならなければわからない事のほうが多い。

私がメサコンの話を書いたのは約1年前になります。あれを書いた時の私は、以前の会社に対して未練に似た感情をまだ持っていたような気がする。私の何が間違っていたのか、私はどうするべきだったのかと正しい答えを探していた。

今、私はこれが正解だったのだと思っています。私は馬鹿だから何度も同じ失敗をしなければ理解できなかったのだ。ある種の人達を心の底から見切るというか、違う世界の人間なのだと納得できるまでに長い長い時間がかかった。

以前の会社は私の勤めていた営業所が異常だっただけで、社風もよく会社自体に問題があるわけではなかった。しかし今となってはあんなに執着した理由すら思い浮かばないのです。今でもクズが生き残り、まともな人が排除されるということは何かしらの原因があるんだろう。

先日、元上司が「今は真面に人材育成に励んでいる」と自分で言っていたが、一番目を掛けて大切にしている部下の正体はクズであると彼は気が付いていないようだ。波長の法則は間違いなく同じものを引き寄せるのですね(笑)

 

以前の会社で必死に働いていたことや、今の会社で自己愛と戦ったことを思い出してみて、満たされた廃人は「小さい世界にいたんだな」と思います。以前の私は目の前の事が全てだった。だから簡単に傷付き、悩んでいたのだろう。今の私は世の中全体が一つの空間のように見える。例えば同じ電車の中のような。

そこには色々な人が存在する。優先座席に我が物顔で座り続ける人もいれば、お年寄りに席を譲ろうとする人もいる。スマホで誰かを大声でどなり散らす人もいれば、ハッとするほど佇まいが美しい人もいる。

中には泥酔し喚き散らかして他人に迷惑を掛ける人もいるだろう。今の私にとってある種の人達は、そんな位置にいる。まず普通の人なら関わりたくないはずだ。我が身に被害を及ぼすかも知れないのだから。

その人がどうして泥酔しているのか、何か嫌な事があったのかと想像を巡らせることはない。そして無事に家に帰れるのか、そのままどこかで眠ってしまい凍死するのではないかと心配することもない。そんな必要がないからだ。

しかし、どうみても普通の人が体調が悪そうだと私は声を掛けると思う。席も譲るし、必要であれば事務室まで付き添う事があるかも知れない。手を差し伸べるか否かは私が決めることだ。それを冷たいとか責められる謂れなどないでしょう?他人なんだから。

電車を降りたら泥酔者のことなんて頭から消えている。喚いていた言葉もいちいち覚えていない。そしていずれ私の世界には存在すらしなかったことになる。

 

前の私は一つの車両を世界だと思っていた。泥酔者に暴言を吐かれて胸倉を掴まれていても逃げ場がないと思い込み、目的地までただひたすら耐えるしかないと。けれど車両を移るか次の駅でさっさと降りればよかったんだ。こんなに簡単なことだったのにな。