満ちる

私は今の自分を廃人と書きましたが、別に生気のない顔で虚ろな目をして生きているのではありません。夢も希望もない人生を送っている人は輝いていない、という過去の思考をまだ持っているからこそ、こう書くしかなかったのだと思っている。

夢も希望もないという言葉を聞くと私は、にっちもさっちも行かなくなって投げやりになっている人を想像する。「生きる希望を無くした」と遺書を残してこの世を去る人もいるが、今の私は死ぬことよりも希望がないまま生き続ける未来の方が辛かったのではないかと考えたりします。

私もずっとそう思って生きてきた。夢や目標のために頑張っている人が好きで、自分自身もその方が素晴らしいと信じていた。しかし今は頑張っている人を悪いとは思わないまでも、間違った頑張り方をしている人には共感できない。頑張っている自分が好きなだけなんじゃないかと。

『頑張っているのに不幸』なのは正しくない。『頑張っていないから不幸』の方がまだ納得できる。頑張っても得られないのなら頑張らないほうがいいし、自分でぶらさげた人参をさっさと放り投げてしまえば、少なくとも理不尽な不幸を味わうことはないと思うのです。

私はずっと、ある種の人達に頑張っていることを認めて欲しかった。だけどその願いは叶わなかった。それはなぜか?理由はわからないけれど認めたくない何かがあったんだろう。その思考を他人が変えることは出来ないのだから、頑張らなくてもよかったのだ。

そして私はなぜあんなに認めて欲しいと願っていたのか。私はずっと自分に足りないものを探していた。自分を認められないから、そのままを受け入れてくれる人を信用できず、足りないものを教えてくれる人達こそ自分に必要だと思い込んでいたのかも知れない。

自己肯定感の低さと無駄な向上心が仇になってしまったのですが、親及びそこから派生した人達こそが私にとっての人参だったという事実の方がショックだ。だけど私は自分を無条件で認めることが内なる願いの一つだったのだとようやく気付きました。

その願いはとても深い所にあるので意識の上まで上がってこない。今でも自分を認めているかどうかなんてわかりません。だけど多分、完全とまではいかなくても認め始めているんではないだろうかと思っている。

その根拠は、他の何かになろうと思わなくなったことです。「ありのままの自分でいい」とよく目にしますが、簡単に「確かにそうですね」とはならない。願望を叶えようとしているなら尚更、今の自分じゃ叶わないのだからいいわけがないだろうと反論もしたくなる。

がしかし、叶えようとする頑張ることこそが既にありのままではなかったのだ。自分を認めたいから違う自分になろうとして、違う自分をありのままだと思い込んで人参を追い続けた。諦めて人参をぶら下げている棒を引っこ抜いたら、最初から人参はいらなかったことに気付いた。

皮肉な話ですが、人参を捨ててみてやっと「人参を必要としていない自分がありのまま」だとわかったのです。そしてそれで良かったんだと心から納得できた時が、自分を認めた状態といえるのではないかと考えている。

 

自作自演の願望実現ゲームという名言を書いた方は、こうも仰っている。

完全に満ちている人生とは、どういうことなのか。

それは、希望もなく、夢もなく、意味もなく、大切な何かなどなく、目標もなく、目的もなく、ただ目の前のことを味わう人生なのだよ。

これを不幸と取るか幸せと取るかは、認識の違いだけなのだろう。