ガム

私がこの日記を書きだして4年目になります。同じことばかり書いているようで、ほんの少しづつだけど確実に前進しているのだとは思っていた。しかし比較対象は昔の自分しか居ないから、つい、過去と比べてどうなったのか、という書き方しかできず。

とある出来事があって、今の自分を改めて見つめる機会に恵まれた。日常とは違う環境に足を踏み入れてみて、初めてわかることがある。私はもう4年前の私じゃない。二度と4年前の私には戻れないんだ。それは嬉しいようであり、哀しくもある。

一番の変化は「仕方ない」と流せるようになったことだろうか。だって人は変わるから。たとえいま問題にぶつかっていたとしても、時が過ぎればなんでもないことになってしまう。その「なんでもないこと」と思える未来から現在を見れば、本当に「なんでもない問題」だったりするのだよ。

何かを失ってもまた違う何かを手に入れればいいだけ。私はこの先の人生を、目の前の現実に狼狽えることなく「そういうこともあるよね」と上手に流しながら生きていくんだろうか。…それって楽しいの?

 

『幸せは刺激』

満たされた感覚を最大限に味わうには、満たされていない状態でなければならない。寧ろ、そうでないと得られないのだから。その感覚を味わうために、自ら目の前に金色に塗った人参をぶら下げている。欲しいのは金色の人参ではない。人参はただのツールだ。

手に入らない何かを純粋に追い求められるのは、きっと幸せなんだと思う。それって、手に入らないものを渇望する苦しさ=幸せとも言えるんじゃないですかね。「〇〇があれば幸せ」「△△が手に入らないから不幸」そう思えることが既に幸せなんじゃないの?

「この刺激にもいつか慣れてしまうんだろうな」そうやって未来から今を眺める人生は決して楽しくはない。でも大丈夫だ。今こんなことを考えていても、そのうち「なんであんなことを考えたんだろう」って思える日がくるから。

それは嬉しいようであり、哀しくもある。

どちらかと言えば哀しい。米津玄師的な言いまわしをすれば『噛み終えたガム』を味わうようなものなのかな。私がなりたかった自分はこれで正解なんだろうか。

と、ちょっとおセンチになっていたら、意外と最初から味のないガムを求めている人もいることを知った。そうだよね、ガムって味わうためだけじゃなくて噛むためのものでもあるんだよね。

きっと正解なんだと思う。