からの安堵感

新年度になり、客先も人事異動で担当者が変わった所もチラホラありますが、私の仕事にほとんど変化はなく平常運転です。突然ですが、私は客先で出会う人全てを顧客だと思っている。相手が新入社員であろうと、担当にはならない事務の方であろうと一貫して態度は変えません。

ちなみに、例えば担当者が他の方の名前を呼んだ時など、今後ほぼ会う事はないと思われる方でも大半は顔と名前を憶えています。人生にはいつ何が起こるか予測が付かない。今は自分に縁のないように見えても、いつキーマンになるかわからないのですから。

私は若い頃からこんな事をしているので、転勤等で担当者が変わろうとも周囲の方々にアシストされたりで、難無く打ち解けられたりします。だから顧客との人間関係に悩んだ記憶がない。しかし私にとっては当たり前だからといって、何もしないで簡単に両手を広げて受け入れられてるわけではないのです。

こうした地道な努力を見抜く人は見抜く。でもわからない人って本当にわからないんですね。だからずっと「何で?」って思っていました。私は私で、相手がわからないという事が理解できなかったのです。私がある種の人達と分かり合えない理由はこれだったのだ。

信じたからって人は変わるわけじゃないですよ。下らない性善説に基づいて、本質を見ないフリをするのは良くないと思います(切実)。性善説とは、ヒトの本性は善ですが成長すると悪を学ぶということらしく、性悪説は逆になります。

性善説は元が善なので、成長過程で悪を学んだとしても元に戻る可能性は十分にあります。しかし元が悪の場合も然り。多少は変わらない時のリスクも想定しておいた方がいいと思うんですけど。少年法とか性犯罪とか虐待とか。

本人が変わりたいと思わなければ変わらない。それにはある程度のショックも必要かも知れないし、愛情不足と決めつけて愛を与えた所で変わる保障などありません。結局人による。潜在意識的には今の思考が未来を作ると考えれば、目の前で愚痴を垂れ流している相手は認識が変わらない限り、その先もずっとそうだということです。

変わりたくない人を変えようとするのはとても傲慢な考え方でしたね。傲慢且つ、とても効率が悪い。意識の無駄遣い。

 

前回の日記を書いた後、ここまで下書きして眠りにつこうとした時、とても不思議な感覚に襲われました。説明が難しいのですが、心の扉が開いて冷たく心地よい何かが出てくる感じ。言葉で言うと清涼感に近い。それが体全体に広がってとても気持ち良かったです。

そして全ての思考から解放されたような気分になりました。私はもう頑張らなくていい、躍起になって人参を追いかけなくてもいいんだと思うと、深い安堵感を覚えた。

私は自分で人参をぶら下げては放り投げ、また新たな人参をぶら下げるというコントみたいな人生を送っているのですが、今振り返ると人参はただの人参で光り輝く金の人参ではありませんでした。だから人参がなくてもこうして生きているし、寧ろ人参以外のもので生かされていると言える。つまり特別なものなんてこの世にないと言いたいのです。

喪失感は一転して安堵感に変わった。それでも私は再び人参を探そうと思っている。というか嫌でも見つけてしまうだろうと予想している。しかし私はもう、ただの人参を金色の人参に見立てることはできないかも知れません。