当たり前の尊さ

喪失感は一転して安堵感へ変化し、丸1週間が経ちました。今もあの不思議な感覚は鮮明に覚えている。あの日の安堵感は間違いなく「快」で、月曜日からは習い事も再開し、忙しくなってきた仕事も難なくこなしている。意欲に満ち溢れているかのように思える日々を過ごしているけど心は空っぽだ。

願いがない。何も追うものがない生活は、本当にとことん煌めいていない。常に何かしらを願い、願いを叶えるために更なる願いを見出してきた私にはなかった毎日。これがポジティブと言えるかどうかはわからないけど、悩みがないというのは素晴らしいことなんだろうと自分に言い聞かせている。

あの日、私はきっと人生に降参したのだと考えています。言い方を変えると現実を動かすのを諦めたんだ。最終的に願望を叶えるのが目的なら、潜在意識を使いこなそうと頑張ることも努力。例えば嫌な気分になった時、無理やり良い気分にしようとする事すらも一つの手段になるからです。

そうした全ての努力から手を引いた結果、穏やかで退屈な生活を送る羽目になってしまいました。しかし穏やかで退屈な生活を送れるのは当たり前ではない、という現実を目の当たりにすることも増えたりして心が落ち着かない。

これまでも書いているように、私は昔から顧客との人間関係には恵まれていると自負している。実際、今の仕事は割と長めだけど嫌だと感じる人がいない。だからとても人間性に優れている方ばかりだと思っていました。大抵の事は飲み込め、大きな心で他人と接する人達なのだと。

人間性に優れているのは間違いないのですが、同業の営業さんが担当を外されかけたという事実を知ってかなり驚いた。そして結構辛辣な態度を取られ、言葉も厳しいのだという。もちろんその営業さんに問題があるわけだけども、なぜかそういう事は起こらない業界で、そんな事を言い出す人達ではないと思い込んでいたのです。

少なくとも私は今の業界で世間話もせず、けんもほろろに追い返されるような経験をした事がない。前回も書いたように初対面から受け入れられ、信用を得るまでの時間はさほどかからないからです。なので私の知らない世界があった事に驚いた。私をすんなりと受け入れている人が、ある人から見れば脅威に感じる人なのだと。

当然と言えば当然なのに私はそんな事を想像したこともありませんでした。バージョンは変わるものの立て続けにこうした発見が見つかり、私にとっての当たり前は誰かから見て当たり前ではないんだと怖くなってしまった。

色んなことを考えていると、私は毒親の元へ産まれはしたがラッキーな方なのではないかと思うようになりました。たまたま知人と昔の話をしていて、親から搾取されていたと聞いた。そこから逃れるために結婚をしたのですが、その道も上手くいかなかったという。親から暴力も振るわれていたそうですが、搾取も含めて知人は未だ毒親であることに気付いていない。

別に知人より私の方が幸せだと言うつもりはありません。しかし私はさっさと家を出て、実質中卒ながら誰かからお金を借りることもなく、これまで生活できている。その時々で興味のある仕事をし、会社にいる間は努力するものの後先を考えずに辞めたりしているにも関わらず、です。

私はずっと苦しいともがいていたけど、本当にそうだったのかな。見方を変えれば、何のしがらみもなく自由に生きていると言えなくもないんじゃないかって。子を育てる義務もなく、介護もするつもりはないので自分の事だけを考えていればいい。寧ろ自分の事だけでいいというお気楽な人生だったんじゃないか。

私は自分勝手な人間なので、他人に時間を使われるのがとても嫌いです。精神的苦痛よりもそっちの方が辛い。もし私が普通の家庭に生まれ、普通に子供を産んで介護までしなければならないとしたら。多分、いや絶対に耐えられないと思います。

私は面倒くさい義務から放免される代わりに毒親を持ったのではないだろうか。なんて考えたりもする。神様は超えられない試練は与えないと言います。私にとって毒親は超えられる試練で、その代償として生きる力を貰ったんじゃないだろうか。

全く煌めいていない当たり前の生活は、実は尊いものだったのだと今更気付いた。