自分の軸

自分の人生の責任は自分で取る。至極当たり前の事ですが、私にはこの覚悟がなかったんだと思います。

他人の言動に簡単に傷付くのがイヤだから、自分さえ我慢していればいいと考えていた。そうしておきながら、どこかで我慢している事をわかって欲しいと思っていたのです。完全に他力本願。

けれど毒親も含め、狡い人達はこうした弱い人間を簡単に見抜く。不機嫌な態度一つで自分の思い通りに動かし、結果がどうなってもその責任を取る事はない。「自分の意志でそうしたんだ」で終わり。損するのは自分だけ。他人の軸で生きるというのはこんなにも怖いのです。

誰かをコントロールしている側が、対象を制御できなくなりそうになった時、何がなんでも阻止しようとする。獲物は逃したくないからだ。しかし、そこを突き抜けてしまえば立場は逆転するのだと思う。

力技でコントロールしようとする人々は、元々多くの技を持ち合わせていない。寧ろ、その方法しか知らないと言っても過言ではないと思う。DV加害者と同じく、泣き落とし→恫喝のようにワンパターンである。このどちらにも反応しない場合、成す術がなくなるのではないかと考えています。

それは彼らも他人の軸で生きているからだ。コントロールして強くなったような気になっているとしても、所詮は他人がいなければ自分の欲求を満たすことも出来ず、自分さえ保てないのだから。自分の理解の範疇を超える人間には関わりたくないんじゃないだろうか。

私はこれまで、彼らの気分を害さないように(自分が中心じゃなきゃ拗ねるから)目立たぬように振舞ってきたけれど、そういうのもやめました。私は自分が幸せならいい。且つ自分の足で立っている幸せな人と、もたれ合うのではなく共有したいと思っている。

 

先日、鬱病の彼から連絡がありました。こちらが電話を切れない用件を持ち出すので無下にするわけにもいかず、さり気なく話を終わらそうとするも絶対に引かない。全く持って自己中心的である。そしてちょいちょい自分ageする事も忘れない。彼の場合はマウンティングというより、ただ肯定して欲しいだけなのかも知れませんが。

私は元々こういうタイプの人間が大嫌いだ。全く私に関係のない「自分、スゴイ」に共感するのが当然という考え方。他人から持ち上げて『もらっているのに』、一度味を占めると強要し始める。

それでも彼は鬱病である。他人から与えられるそれらを当たり前だと思っているからではないか。圧倒的に感謝が足りない。彼が距離を詰めてくるまでの私達の関係は、決して良好とは言えなかった。彼に不快感を抱いた事も数知れず。それを病気のせいにして都合よくなかったことになんて、こっち側はできないんだよ。

面倒くさくなったので「関心がありません」という旨の言葉を告げて電話を切った。その後、彼と会わなければいけない日がやってきましたが、私にはもう迷いはありませんでした。私は真っ直ぐ彼の目を見据え、彼の眼は常に泳いでいた。

自分の軸を持つと、他者にコントロールされることはなくなる。