スイッチ

鬱病の彼は、ますます笑顔が増えて穏やかになりました。聞くところによると、酒に酔って電話を掛けてくることがかなり減ったそうです。良かったですね(棒)

私はあの時、敢えて彼の心を察しないようにしていたのですが、自分的には大正解だったと思っている。Iさんに逢う前の私だったら、きっと彼がして欲しいことや言って欲しいことを先回りして行っていただろうから。好きでなくても大事じゃなくても、そうなってしまうのはACの悲しい特徴でもある。

彼を見ていて、人って放っておいても割と大丈夫なんだと思いました。甘える所があるから甘えるだけで、当然こちらには甘えさせない権利もある。他人の気持ちを察する(顔色を見る)能力を誰彼かまわず発揮すると、要らないものを背負う羽目になると痛感した出来事でした。

私はこれまで主導権を他人に渡してきたからこうなっているのです。自己評価が低すぎて、相手を優先するのが当たり前だったから。なのであれから切替スイッチを搭載しました。

例えば、誰かが不運に見舞われている時は気も使うけれど、それを利用する人達(いわゆる察してちゃん)に接する時はスイッチをオフにするという具合です。人を選ぶのは悪い事だと思って生きてきた結果がこれですから、自分の人生の為には絶対に必要な事だと思う。

私は今後、後者の人達と親しくなるとは考えにくいので、どうでもいい人の部類に入る。どうでもいい人はどうでもいい。私は他人の機嫌を取るために生きているのではありませんし、他人の為に生きるつもりもない(語気荒め)

以前載せた本の中で、苫米地氏は感情をゴミだと言いきっている。氏はゴールを持つ事を前提とした上で、ゴールと関係のない感情はポジティブなものでもゴミになると言っているのですが、私自身は明確なゴールがなくても感情はゴミだと考え始めています。

スイッチを切る(他人に興味を失くす)と、当然ながら他人の感情に振り回されることが少なくなる。興味がないというと語弊があり説明が難しいのですが、正確にはあります。他人の行動だけを見ていると言えばいいのか。

このスイッチは、自己愛の強い人達を撃退するにはとても有効だと思われます。私は今、彼らに対して感情を見せない生活を送っています。機嫌が悪いわけでもなく、ただ無表情で見ているだけ。薄い顔も手伝って、多分能面みたいな顔をしているだろう。

話も聞いているし目も合わせているんだけど、存在しない何かを見ているような気持ち。否定でもない肯定でもない、敢えていうなら無の境地。たとえ相手が怒ろうと拗ねようと「なんか言ってるな」―終了ー、てな感じで。

 

昨日ランチにお蕎麦を食べていたら、近くにいた年配の女性が苛立った声で店員さんに蕎麦湯を頼み。店員さんが「すぐお持ちします」という答えるも、「もういいわ!」と立ち上がって会計に行きました。

そして会計時に、「気が利かない」とか「商売は云々~」とか散々悪態をついたあげくに、そう広くない店の引き戸のドアを思いっきり閉めて出て行った。皆気にも留めてなかったけれど、迷惑な客だなと思いました。

その店は、通常ならば頼まなくても店員さんが持ってきてくれるのですが、繁忙時は忘れられることもたまにある。もちろん言えば持ってきてくれます。なのになぜ怒りがヒートアップする前に頼まなかったのか。「もういい」なら、なぜ頼んだのか(謎)

氏は、脳が進化していないという理由から、「感情的な人の脳はサル・ゴリラレベル」とも書いている。感情スイッチはオンオフというより対・人モードか、対・サルモードと言った方がいいかも知らん。 

他人の感情に振り回される事ほど、無駄な時間の使い方はないと思う今日この頃。