嬢とフェチ

毒親という存在に対する今の気持ち。

私はもう、そこに拘ってない(と思いたい)のだけど、”うっかり毒親の元に生まれてしまった場合、どうやって昇華するべきか”というのは、ずっと考えています。

まず一番に「愛せないならなぜ産んだのか」という疑問が湧いてくることについて。これは考えるだけ無駄で、答えは「出来たから」です。大抵の毒親は何も考えていない。子供を育てる事について深く考えないまま、産んでしまったというほかありません。

そして、産んでしまったものは仕方がないのだけど、「なぜ自分の子供なのに愛せないのか」という疑問。これは、その疑問を持ってしまうこちら側にも問題がある。まず、「親は子供を愛せて当たり前」という刷り込みを覆さなければいけないと思うのです。

愛するとはある種の能力で、毒親はその能力がなかっただけの事です。なぜないのかと責めた所でないものはない。しかし本人は愛に溢れていると勘違いしているからこそ、自分は子供を育てられるという根拠のない自信に満ち溢れて、何の疑いもなく親になってしまう。

もちろん子供を育てていく中や年齢と共に変わっていく人もいるだろうけど、人は変わろうとしない限り変わらない。もともと能力もなく努力もしない人に対して、この問いは愚問である。

それから、「自分の何がいけなかったのか」と責めることについて。愛されなかったのは自分に問題がある、と自分を責めるのは無意味です。自分を愛せない人は、他者を愛することはできないから相手の問題。

機能不全家庭には搾取子と愛玩子がいるパターンがありますが、毒親で悩んでいるのは搾取子が圧倒的に多いと推測する。頑張って努力しても、親からの愛情を得られない人達。「どうして私は愛されないのか」と悩んでいた過去の私もここに入る。

私はこの疑問について、ある種の人達にとって搾取子は永遠に搾取子だと考えています。自分の中に愛を持たない人は、そもそも自分を保てないゆえに愛情の横流しをしているのだと思う。誰かから奪い、他の誰かに与える方法しか持ち合わせていないのだと。

 

先日、過程という記事を書きましたが、実際の所、決して彼らは過程だけを望んでいるわけではありません。結果という事実があるからこそ、悠長に過程を楽しむ余裕があるのだと思っている。

読んで字の如しですが、会社に置き換えると結果を出す=搾取子、努力を評価される=愛玩子になる。しかし実際は努力だけでは立ち行かない。搾取子がいなくなれば愛玩子に与えるものがなくなるからです。これは何を意味しているのか。

ゲスい例えですが、キャバ嬢がホストに貢くアレに似てますね。生態を詳しく知らないので私の憶測でしかないのですが、偽りの愛を売って得たお金で偽りの愛を買うような。(嬢様は偽りの夢を売るのがお仕事なので、それについては立派なお仕事だと思っています)

ただホストに貢ぐのは、軍資金がないと駄目なわけで。その為には自分に貢いでくれる男性が必要不可欠で。内心では馬鹿にしたり見下していても、諭吉様は手放せない。つまり私はホストに狂うキャバ嬢に貢いできたのと同じだ。

とはいえ目を覚ましてお店に通うのを止めてしまえば、今まで通りの平穏な毎日が送れるのだし、いつか「あんな事もあったな」と甘酸っぱい思い出に変わる日が来るかも知れない。底なし沼に嵌る前に気が付けば、の話ですが。

私が言いたいのは、搾取される側はそこから抜けても困らなくて、現実的に困るのは搾取する側の方だということです。代わりを見つければ困ることはないかもですが、それはそれでよくて、困るかどうかの心配をする必要はない。

「いつか真実の愛に目覚めてくれる」とか淡い期待を抱いたり、「汚れた世界から自分が救いだすんだ!」と鼻息荒く騎士気取りをしたいのなら、嬢様に貢ぎ続けるのも悪くないと思いますけど。

 

それと、どうすれば愛されるかということについて。これは毒親とかに関係なく、誰に対しても言えると思うのですが、愛する愛せないはフェチのようなものだと考えている。

またゲスい話ですが、私の友人(男性)は女性の鎖骨が大好きで、並々ならぬこだわりを持っています。(いい鎖骨と悪い鎖骨を一生懸命教えてくれたのですが、私にはさっぱり意味不明)その彼の前ではいくらナイスバディーの美女でも鎖骨がダメならアウトなんです。

逆に鎖骨がピカイチなら、たとえ胸が貧しくても最高なので、「私の方がスタイルがいいのに!」とか「顔もこんなにキレイなのに!」とかは愛される理由にはならないわけで。外見だけでなく性格も付属品も全て、良し悪しの問題ではないということです。

 

他人に愛されない理由を探すって、こんなに無意味で下らないって言いたかったんだけど。