埋められない溝

先のことはまだわかりませんが、自己愛+共依存者との戦いは一旦の区切りを迎えたのかも知れません。

今の会社に入って色々なことがありました。当時AC全開だった私は、自分はどうすれば親に愛されたのか、自分の何が間違っていたのか、その答えをまだ探していた。そして親に似た彼らに望まれるまま動き、結果を出したその先はこんな形になった。

長い時間が掛かりましたが、やっと納得のいく答えが見つかった。私が親に愛されるためには、自分の意思を持ってはいけなかったということです。ただ言いなりになって、且つ自尊心や虚栄心を満たせる生きた人形だけが愛される資格を持つ。親と他人は違うと思われるかも知れませんが、私はそう違いはないと思っている。

そして仮に私がそうなったとしても、きっと愛されることはなかっただろう。なぜなら求める愛の形が違いすぎるからです。それ以上でもそれ以下でもなかった。

私は大切な人に笑顔でいて欲しいし、幸せであって欲しいと願います。そこに自分が関わっていなくても構わない。だけど少し辛い時や悲しい時には、一緒にいるだけで少しでも元気になれるような人でありたいと思う。

自分以外の人間の不幸を望み、幸せそうに見える他人を妬んで足を引っ張る。他人を幸せにできないのに積極的に関わっていき、ありがた迷惑なお節介を押し付けた挙句に賞賛を求める人達とは生きる世界が違うのです。

私はずっと自分の正しさを認めて欲しいと思っていましたが、それも無意味なことだった。彼らは彼らのいる世界では正しく、私は私の世界では正しいというのが私の出した結論です。

 

私は彼女に物申してから、彼女を冷静に観察して、その視点に立ってみた。一つの物事で、受け取り方や感じ方にこんなにも差があるものなんだと驚く。違う人間なので当たり前なんですが、彼女の立場に立って考えた事がなかったから解らなかったんだ。

例えば昨日書いたコピー用紙の件にしても、おそらく多くの人は彼女のような思考を持ったことがないと思う。公私共にそんな出来事は多々あるわけで、その度に損得勘定をしていたら身が持たないと感じる方が一般的ではないか。なんの修行だよ。

自分の使いたい時に”たまたま”ポットのお湯が切れていただけで運の悪さを嘆き、自分に運ばれてきた料理が”たまたま”少し崩れていただけで悪意を感じ取る。逆に他人がその立場になれば、人の不運(笑)をことさらに囃し立てる。

(彼女の仰天エピソードはてんこもりにありますが、あまりにもアレすぎて書きたくなかった。他人には何でもない出来事が、彼女にとっては不幸にも幸せ(この場合は他人の不幸)にもなれる出来事だということが言いたい。さすがに自己愛はここまでではなくとも似たようなものです)

それらを「だからお前はツイてないんだ!」と言われましても「は?」としか思えないように、こちらが「ケトルで沸かせばいいじゃん。誰かと交換してもらえばいいじゃん。」と言った所で不幸を見つけたがる天才様にはご納得いただけないのだ。

「幸せは自分の心が決める」とはこういう事なのかも知れない。同じ空間の中に幸せな人と不幸な人が存在する理由がわかったような気がした。そして心の在り方が違う人同士は共存できたとしても、相容れることはありません。

魂レベルが違う人との間に愛は存在しない。だって私も相手を愛せないのだから。不幸になりたい人と幸せになりたい人には絶対に埋められない溝がある。

私は今、心の底から親に愛されなくて良かったと思っています。

 

結局人並みのリーマンにもなれなかったけれど、ここに至るまで確固たる証拠を示してくれた自己愛と共依存者に感謝している。それから、自分の本当の望みに手を伸ばす勇気を与えてくれたIさんには愛と感謝の気持ちでいっぱいです。