真実

私達は、常に得られない「大事な何か」があるから、人生に意味や希望を見出している。その最大の目標が完全に叶ってしまったら、それが当たり前になり関心がなくなる。そうなるのが怖いから自ら目の前に人参をぶら下げているのだ。

以前、『自作自演の願望実現ゲーム』について、こう仰っている方がいると書いた。 そして私は確信のないこのゲームから下りる=死という考え方に陥ったのですが。これまでに何度か死を考えたことはあったけれど、それは「生きたい」の裏返しだったと思う。

しかしあの時、私は願望さえ叶えば生きていたいと思ったのではありません。何かを求め続けて生きる未来を悲観したのです。とはいえ何も望まない世界は希望がないという事だ。それは文字通り絶望と呼ぶのではないかと、そう考えていた。

件の方の話は奥が深い。「今ないものを求める」ということがいかに馬鹿馬鹿しいことか気付けば、それでゲームは終わるだろう。願望が叶うとか叶わないとか、幸せとか不幸とか、そういうものを超越することだよ。とも。

私はゲームから下りた。でも死ななかったし普通に生きている。そしてその世界は絶望とは程遠く、人間は望みがなくても生きられると確信した。かつて願望だった事が当たり前になり関心がなくなる状態は、既にキラキラしていない時点で叶っていないものと同じだと思っている。

つまり、最大の目標を叶えた状態であるとも言える。いつもないものを追い続けて思いを馳せていた日々とは全く違う。何かを手に入れようと頑張っていた自分がアホみたいに思える。なので他人の痛みにも鈍感になってしまったのかも知れない。

鬱病の彼を何度も引き合いに出して申し訳ないが、彼は私が会社絡みで悩んでいたことを知っている。だから未だに心配してくれているのだけど、私はもう悩んでいないし、心はそこにないと言ってもわかってもらえない。

何だろう、ヒーローにでもなりたいのか、わけのわからない正義感みたいなのがあるんだろうか。きっとこの先も暫く、彼の中の私は可哀想な人であり続けるんだと思う。もしかしたら自分の気持ちを理解してくれそうに見えるのかも。

だけど私は仕事にも彼にも興味はなくて(色々と考えさせられるのでその意味では興味があるけど)、病むぐらいなら全ての物を手放せばいいのにと思っているし同情もしない。何が言いたいのかというと、彼の中の私と私自身は大きく乖離しているのです。

そう考えると、親の事や過去にあった出来事の全部が、本当に真実だったのかなって。私は一部を見ただけで、自分で勝手に作り上げたものがあったんじゃないか。むしろその方が多かったんじゃないかとすら考えてしまう。

だとしたら私の過去はあってないようなものなんじゃない?