使い捨て

12月28日

今日は久しぶりに何もせず1日中ゴロゴロして、長かった片思いについて考えていた。仕事とお金に関しては「ある」を理解しかけているのに、恋愛だけは感情が絡みまくりなせいかすんなりと府に落ちてくれず、思考の癖を修正できない。その解釈を採用すればいいだけだと思うんだけどな。

色々と考える中で、やはり「がんばることをやめる」ことはキモだという結論に至りました。どんな形にせよIさんとの現象化を目的とする頑張りは無意味だということだ。私の場合は頑張ったから見返りが欲しいのだし、見返りもなしに頑張れるほど努力の人でもないから、見返りや執着から離れるためには「がんばらない」ことが一番良いのだと思う。

以前も書きましたが、昔働いていた会社を辞める決心をした時と恋人を諦めた時に、あっさりと願いは叶った(結局叶ってないけど)経験がある。もう一度当時の気持ちを思い出してみたところ、私が願望と決別できたのは「割に合わない」と感じたからです。願望を叶える為に努力した力と反比例し、願望そのものが小さく感じられるようになったのでした。

そういう視点で今の気持ちを観察すると、Iさんに対しても同じ気持ちを持っている事実に気付いてしまった。私は、今幸せだと思っている。現実のIさんとは約3か月もの間会っていないのだから、私の幸せとIさんは全く無関係なのです。それなのに。私の幸せに何の影響ももたらしていない存在でありながら、大きなウエイトを占めていることに我慢ならないの。

実際、先日Iさんに会うまでは普通に穏やかで幸せな日々を送っていたのに、こんなにも悩み、考えさせられていることにムカついている。断っておきますが別にIさんは関係ない。Iさんはただ存在しているだけだから何も悪くないのだけど、私が感じている私達の関係はとてもよろしくないのです。

Iさんという存在に対して、私から発生する感情が私自身を幸せから遠ざけている。まさかこんな日が来るとは思いませんでした。

 

ここまでは昨日の下書きです。何かを得るための「頑張り」がなぜ良くないのかというと、自分を生きることが難しくなるからだと思う。潜在意識の達人たちも「がんばらないこと」を強く勧めているけれど、何もしないという意味ではない。好きなことや得意なことは特に頑張らなくても自然と身に付くからだ。

私は肌質を改善するために頑張ったけれど、それは純粋に自分のためでした。その方が気分がいいと感じたから面倒ながらも続けられたけど、「肌が綺麗になったら○○の願いが叶う」という紐付けをしていれば、叶わなかった時にやはり辛い努力だと感じてしまっただろう。

同じことをしていても感じ方や捉え方は思考の持ち方によって、こんなにも変わってしまうものなのですね(しみじみ)。私はいつの間にかIさんそっちのけで幸せになってしまっているから、罪悪感みたいな妙な感情が発生しているのも事実で。Iさんのお蔭でここまで来れたのに、Iさんのお蔭で足止めを食らっているような「いま」がとても複雑だ。

”愛を表現する石”のついたリングを初めて見た時、もちろん脳裏にあったのはIさんだった。未だに身に着けてお出かけしたことはなく、次に彼と会う時にしようと決めていたのに。だけど色々な思いが交錯して結局着けなかった。私はその時から既に変わっていたのかも知れない。

 

今私はIさんにではなく、時間と努力に執着しているのです。けれど潜在意識には掛けた時間など、あまり関係ないように思う。もちろん長年共に歩んできた自分の中の想いと離れるのは辛い。しかし無用になった思考は置いていかなければ。また新たな常識を自分でつくり、不要な常識は捨てて行く。

常に幸せだけを見つめるには、思考を使い捨てるのが最善のような気がしています。