まやかし

「あれさえ手に入れば幸せになれるのに」そんな思いを抱き、大切に握りしめていた願いが叶ったらどんなに嬉しいだろう。私もずっとそう思っていたけれど、今は違う。

もちろん叶った後も幸せなままでいられる人はいる。しかし私に限っては、思考が変わってしまったら願いを抱いていた時の自分ではなくなっているから、幸せかどうかはなってみないとわからない、というのが正直な気持ちです。「幸せになれるのに」はただの願望であり期待であり想像でしかない。つまり実体はないのだ。

喉から手が出るくらい欲しているものが「ない」と感じる時の苦しさや渇望感、「手に入らない」と感じる時の無力感や欠乏感。文字に起こしただけでも「幸せ」とは程遠い。願うって割とつらいよね。何のためにこんなツラい思いをせにゃならんのだ。ワクワク感やほんのりと幸せを感じられるならいいが、そうでないならもう修行の域だと言っても過言ではないよ。

『幸せになりたいなら手放す』とはこういう意味なのだろうか。思い出すのもおぞましい、あれらの感情から解放された私は間違いなく以前よりも幸せだ。「あれさえ手に入れば幸せ」そう思う時、手に入れていない私は相対的に不幸である。「今は幸せでない」と必死で潜在意識に刷り込んでいるのだから、幸せになれる何かは実物以上に光り輝いて見えるのも当たり前のことで。

願望を叶えるには重要度を下げた方がいいと言われますが、そんなの光り輝いて見えてる時は無理な話ですよ。だけど今はそれすら疑いの目を向けている。重要度が高いのではなく、自分が意図して重要度をわざわざ上げているんじゃないかと。下げるというより正しく見えていないだけ、そもそも過大評価しすぎ、と言ったほうが私にはしっくりくるのです。

人は変わる。ていうか変わらないものなんてない。「唯一の良いもの」はそれより良いものに出会うと唯一ではなくなるし、光輝いて見えた何かが色褪せてしまうのも避けられない。そして再び金色の人参を追い求めることと、自分で金色に塗っているんだと知覚する状態とでは天と地ほどの差があると思う。金色の人参も切ってみればただの人参なのだから。

最初に戻りますが、『思考が現実をつくる』のだとしたら。願い続けても叶わなかったことが不意に実現した時、思考パターンが変わったという見方ができる。思考が変わるということは既にその願望は願望でなくなっている可能性だってあるのです。「諦めたら叶う」などといった残酷な仕組みは、こうして考えると不思議でもなんでもない。

金色に輝く幸せの人参を渇望し、やっと手に入れれば何の変哲もない普通の人参だったと知る。「こんなはずじゃなかった」と、また新しい金色の人参を探す旅はエンドレスに続く。この作業を不毛だと意識で認識しまった以上、私は『幸せ探しの旅』にトキメキを感じることはできません。無駄だからです。

一般的に絶望とは希望のない様子を指すらしい。望みが絶たれた状態である。私もかつて絶望し、死を覚悟したことは数回あるけれど、こうして生きているのだから重症ではないっぽい。私の親族には「家柄が釣り合わない」という理由で結婚を反対され、自ら命を絶った人がいるが、私はそこまで誰かを愛したこともないのだと思う。本当は絶望すらまやかしだったんじゃないだろうか。

絶望とは現実から得る感情で、願望実現に対して働きかける手立てが一切なくなる様子を表しているのだと思っている。対して、願望そのものを持たないことは絶望とは言えない。はなから望みがないのに絶望することなどあり得ないからです。だから私は前回の日記を無望と書いた。受動的か能動的かの違いだ。

夢や希望を一貫してポジティブに捉えられる人達は、「夢や希望がない」=絶望と感じるかも知れませんが、その人達は少し勘違いをしているようにも思う。潜在意識的視点から見ると、「夢は叶えるもの」と言い切れる方々は「既にある」状態にいるからだ。つまり実体のない憧れなんかじゃないのだけど、まだ形になっていない時点では便宜上、夢や希望という言い方しかできないだけで。

「ある」と決まっているものは夢とか希望じゃないでしょう。彼らだってホントは夢や希望なんか持ってないのかも知れないよ。