あきらめる

そういえば、わだかまりのできていた会社の彼女も変わりました。ほんの少し、微々たるものですが自分から動く様子が窺える。(どうやら「気が利かない」という自覚はあるらしく、そう言っていた)私は「あれ?」と思ったあとすぐに意識を逸らすので、心情までは観察していませんが。しかしこれが事実ではない可能性もあって。

私が以前と同じ気持ちなら気付かなかった変化かもしれないからです。彼女のことを完全に諦めた私は、彼女への期待値を極限まで下げているので相対的に良くなったような気がするだけってこともある。だとしても人間関係は良好なので、概ね良い傾向なんじゃないでしょうか。深く追求しない。

ちなみに。諦めるとは嫌いになるということではありません。「あきらめる」の意味は『ものの道理をしっかりとらえ、原因、結果を明らかにすること』だそうです。勘の鈍い彼女を「明らかに見る」。鈍いのは短所ではないですが私は鈍い人が嫌いなので、彼女の鈍さを知覚する行動を「私が」避けるという手段をとっています。

私は元々彼女のことを好きで色々とやっていたのではありません。社会人として、先輩として「やらなければならない」と半ば強迫観念のようなものがあったのだと思います。だからつい見返りを求めてしまう。距離が近いだけにスルーもできず。まぁこれらも全部言い訳でして。私が「望んだ」ことに変わりはないんですよね。

「望む」とはポジティブな願望だけではなく、思考や観念も潜在意識では「望み」と捉えられます。上記の「やらなければならない」はすべて私の世界の話です。でも私はそんな世界を嫌だと思う自分に気付いてしまった。だから必然的に回避する方へと潜在意識が舵を切ったのだと思います。

『この世界には自分しかいない』を知覚すると、嫌いな人っていなくなります。物理的に目の前から消える場合もあるでしょうし、少なくとも自分の世界からは薄れます。私の世界に悪影響を及ぼしさえしなければ、どうでもいい他人はどうでもいいわけです。しかし、その悪影響を及ぼしてるのって相手ではなくて自分の意識なんですわ。

「自分=世界」「世界=自分」なので、嫌いな人がいない状態はなんといっても自分へのメリットが大きい。嫌いな人ばかりの世界、嫌いな人がいない世界。私は断然後者の方が幸せです。