義務

少し前から、ふと思ったことや考えたことが現実になる回数がすごく増えています。但し想像した形とは微妙に違う場合が多い。たとえるなら車が欲しかったのにバイクがきた、みたいな。しかし願望という認識はほぼないので「車じゃないじゃない!」とムキムキすることはありません。

むしろ「バイクの方が良かったじゃん!」的な結果だったりもするし。「へー。私は車が欲しかったんじゃなくて、移動手段が欲しかっただけなのねー」というふうに流しています。それから、何年も願望として握っていた「したいこと」も現実になりそうで。コロナのヤツが収まったらという条件付きだけど。…速やかに収まれ。

その「したいこと」というのも、今になってみれば何故「願望」にしてしまったのかよくわからないんです。したきゃすればよかったのに、って思う。一体、何にこだわってたのかサッパリ。

『願望を手放したら(どうでもよくなったら)叶う』よりか、やはりハードルの問題だった模様。イメージ的には、しゃがみこんだまんまで「いや無理っす。自分、飛べないっす。」って下から高跳びのバーを眺めているような感じ。立てばそこまで高くないんだけどもね。

 

突然ですが、人間って幸せになるのが『義務』らしいんですよ。権利ではなくて義務。「幸せになります」って誓って、この世に生まれてきたんです。神は人間が幸せになるのを望んでいる。清貧や自己犠牲なんてのを神は望んでおられないわけです。

そんなことをしても神はご褒美をくれません。なぜなら「自分=世界」なので、もちろん「自分=神」でもあり、「自分を不幸にする=神を不幸にする」のと同じだからです。不幸になるのは神のご意思に背く行為なのですよ。冒涜が過ぎるでしょ。

現実世界の「我慢していればいつかは報われる」なんて嘘。というより「我慢はいつになっても報われない」が私の中の真実です。もちろん正しい我慢は報われるかもしれませんが、間違った我慢は報われません。そもそも正しい我慢を我慢とは言わないのでね。

どこぞの誰かが言い始めた美徳(笑)なんて何の意味もないの。 私は人間より神のほうが怖いので、神のご意向に従って生きていく。なんせ『義務』だから。

【お気持ち】表明をしたところで終わります。今年は良い1年でした。

来年はきっと、もっと。

 

よいお年を。