御節

12月下旬に入った頃、母から「お寿司を注文してるから、31日に取りにきて」という連絡があった。「行けるかどうかわかんないのに、なんで注文してんの?」と咎める私に対し「そうなんだけど」と母。だからさ、「けど」ってなによ。「行けたらいくわ」と言って電話を切りました。

晦日。「なんでまた寿司なの。でも生モノだし、しょうがないなー」と思いつつ、実家へ向かう。ちなみに年末詣にも向かったのですが、神社がある市に差しかかった辺りの情報板は積雪による路面凍結の警告を発していた。ノーマルタイヤで構わず進むも、やはりちょっと危険な香りがしたので途中で引き返してきました。

それはともかく。実家に行くと「お寿司」ではなく「おせち」だった(汗。おせち好きじゃないんだよね、私。でもしょうがないので、やたらに仰々しい二段重のそれを持ち帰る。そしたら中身は「おせち」ってよりか、おせちという名のオードブルであった。へー、これが噂の高級おせちってやつなのかしら。

少し前から無性に食べたかった飯蛸の頭といくらの醤油漬け、買おうかどうか迷って結局買わなかった栗きんとんも、ちゃんと入っておりました。ようこそ、WELCOME。前年最後は、とにかく「食」に恵まれた1か月だった。「来年も、そうでありますように」と願った私の食生活は新年早々から恵まれている。美味し。

過去と比べることに何の意味もないのだけど、変化の証として書いておく。去年の私ならきっとこの「おせち」を喜べていない。いくら高級であっても。というか取りに行ったかどうかも怪しい。「どうして頼んでもいないものを勝手に注文するのか」とか「なぜ父のいる時に買わなかったのか」と、怒り心頭だったかもしれない。

でもね、もうそんなことはどうでもいいのだ。私の目の前には「おせちという名の(略」がある。感情や思考でもって「それ」の価値を上下させる必要はないんですよね。「おせち」は「おせち」でしかないの。神である『内なる存在』と、与えられたモノに感謝する。それだけでいいんだと思う。

流れてくる現象をただ受け入れ、目の前の現実を味わう。詭弁さんのいう通り、それが「今に生きる」ってことなのかなって。

もちろん母にも感謝してます。ありがとう。今度うな重でもご馳走するわ。