自己愛との戦いで得たもの

自己愛達の「必要として欲しい」欲求と、私の「認めて欲しい」欲求は同じ種類だと思う。どちらも他人から貰うしか方法がありません。

母に似た人が私を認めてくれたら、母の間違いと私の正しさを証明できると本気で考えていた。でも認められることはなく、母と同じように奪われるだけでした。

母のような人は世の中に沢山いて、絶対に改心することはない。万が一、改心することがあったとしても、その為に使う時間と力は無駄でしかありません。私は自己愛達と関わることにより、やっと心の底から理解して諦めることができました。

 

もし私が歪んだ承認欲求を持たなければ、これまでの人生は大きく変わっていたと思う。結果を出した分、正当な評価を頂けたかも知れない。

過去に何度か「仕事を頑張っているのはわかるけど、何のために頑張っているのかわからない」と言われたことがあります。それは私がどうなりたいか、どう生きたいかが全く見えなかったからだと思う。

私はメサコンちゃんと働いた会社を退職する少し前、昇進のお話がありました。その会社で私の学歴では異例中の異例と言えるでしょう。けれど将来のビジョンなど持ったことがなかったので、社会的に認められる事に対して価値を見出せなかったのです。

自分で選んだことですし後悔もしていませんが、自分の軸で生きていれば仕事の仕方や問題がある人との関わり方も、きっと違うものになっていたでしょう。

 

人にどう思われたいか、自分がどう生きたいか。私はこれを同じものだと思っていた。

けれど他人の軸で生きれば他人に振り回される。他人がいなければ支えられない何かを手にした所で、今度は失う怖さにがんじがらめにされるのです。

自己愛との戦いで得たものは大きい。