母を捨てて良かった

共依存者の無能さを例え話にすると、仮に料理を作ろうとしていて、「スーパーでバターを買ってきて」と言っているのにチーズを買ってくるようなものです。よくある箱に入ったアレは大きさも一緒で同じ棚に陳列されている所が多い。それゆえ間違えたというパターンである。

私はここまでなら怒らないと思う。問題はチーズでは料理が作れないということだからです。再びそこへ出向いて返品し、バターを持って帰ってきてくれればそれでいい。ところがバターと同じ場所に置いてあったとかなんとか言い訳を始める。置いてあったとしてもパッケージは違うだろ?間違えたのはお前だろ?

そんな事を言おうもんなら、矛先はスーパーへ向かう。違う場所に商品を置いていたスーパーが悪い、売り場の管理はどうなっているんだ、とこうなる。客が一旦手に取り、違う場所に置いた可能性の方が高いし、従業員の方が売り場でSPのように見張っておく事は不可能だ。

しかし怒りに呑み込まれた彼女はそんな事など耳に入らない。こうした彼女の気持ちを宥めるためにスーパーへクレームを入れ、非を認めさせるまで絶対に納得しない。これがだいたいの流れである。で、問題の料理は私がスーパーへバターを買いに行き、仕上げるという有り様。

文字にすると酷いですね。私はスーパーも売場もどうでもいい。繰り返しますけど、料理が作れればそれでいいのだ。しかし彼女が何らかの形で関わってくると、こうした余計な仕事が発生する。普通の人は交換に行ってくれるだろうから、トラブルの内にも入らないのだけど、彼女の気持ちの処理に人手と時間を奪われる事の方が問題なのです。

私は絶対に彼女に仕事を頼まないから、あくまで例えの話なんですが、頼んでもいないのに「バターがないね」という会話を聞いて勝手にスーパーへ出向くのが彼女である。頼むから余計な事はしないで。

こうしたところは私の母にもメサコンにも共通する部分。私は彼女達が理解できない。なぜ余計な仕事を増やすのか、そしてなぜ何度も同じことを繰り返すのか。今はしないが、例え話の中だとスーパーへクレームを入れる事までも私が担わなければならなかった。

最初から自分で買いに行っていたなら何事もなく料理はすんなりと完成していたのに、精神的にも疲弊した上、時間も労力も使って料理を仕上げなければならない。彼女達の存在が何の生産性もない事に色んなものを奪っていく。無駄の極み。

GWを境に「どうして私は彼女達に振り回されなければいけないの」と嘆いていた過去の自分と、新しい自分の存在を認めるようになった。

今、彼女の機嫌を取るためにスーパーへクレームを入れるのは自己愛の役目だ。私は随分前からその役目を放棄したけれど、どこかで自己愛に対して同情に似た感情を持っていたような気がする。他人の機嫌の悪さに自分が責められているような居た堪れなさを感じているんだろうと推測していた。

でも今は「この人は何をしてるんだろう」としか思えない。冷静になれよと。頼んでもいない事に手を出したのは彼女。商品を確認しなかったのも彼女。別にスーパーは悪くないのに、謝らねばならない担当者はさぞや気分が落ちたことだろう。そして何より、彼女は周囲を引っ掻き回して迷惑を掛けたにも関わらず無傷だということ。

例え話の流れでいくと、最終的には「自分がバターを買ってきたのだから皆が料理を食べれる」のだと変換されているはずだ。在り得ないと思うだろうけど、そういう思考回路なのだから仕方ない。悪いけど、私は要らないわ。そういう人。

自己愛にしたって好き好んでそうした役目を果たしているわけじゃないと思う。その証拠に目に見えてイラついているのがわかるからです。しかし怒りに呑み込まれると損をするのは自分。原因は彼女なのに、スーパーから恨みを買うのは自己愛。周囲に八つ当たりすれば嫌われるのも自己愛。(自己愛は他にも嫌われる要素満載ですけど)

 

私は母を捨てて良かったと心の底から思っている。

母を捨てて本当に良かった。