今幸せ2

私はずっと不幸の渦の中にいたから、昔なら恋人がこうしてくれれば、お金さえあれば幸せといった感じで、誰かや何かがそこから救い出してくれるのだと考えていた。これは達人さんたちが仰るように、「今は不幸である」という確認作業です。

今は不幸というベースの上に物事が成り立っているので「あれが手に入れば幸せ!」と思える何かを求め続ける。ところが手に入って当たり前になった途端、また新たな幸せを求めに行く。求め続ける行為そのものはおそらく、今幸せであってもなり得ると思うのだけど、違うのは再びベースである不幸の位置に戻る所だと思います。

常に不幸の位置にいるから彼から連絡があっただけで幸せになれるのだけど、逆に言えば今不幸でなければその幸せは感じられない。そして何かの現象がなければ幸せになれないなら、あれやこれやと幸せになりそうな何かを欲し続けなければいけないのです。

今不幸な人が引き寄せや潜在意識で幸せになったというのを見れば、自分だってそうなるはずだと思うのは無理もありません。しかし過去の私のように、叶いかけたけど結局駄目だったとか、叶わなかったという人もいる。その差は多分、叶った・叶い続けているという方はベースが変わっただけなのだと思っています。

剥がれかけてボロボロの壁にペンキを塗っても、塗るそばからポロポロと剥がれていく。一度古いペンキを落とさなければ綺麗に塗れないのと同じで、ベースを変えないことには一時的に幸せになってもそれらは簡単になくなってしまう。

私がいつこうなったのかはわからないのだけど、以前は願望を願い続けるのをやめるのが怖かった事だけは覚えている。常に送り出さなければ叶わないのではないか、送り出すことをやめてしまえば願いは消失してしまうのではないかという恐れがあった。

だけど願いを叶えてどうなりたいのか。なんのために願いを叶えたいのか。答えが「幸せになりたい」なら別に願いが叶わなくてもなれる。幸せになったら、幸せになるための条件(願望)は要らなくなると言っても過言ではなさそうな感じ。そうなると「あれがないから不幸」だと自分を苦しめてきた全てから解放される、ということなんだろう。

恋愛に悩んでいる人は「彼から連絡がこなくても平気」と言うのを見ると心がざわつき、お金を求めている人は「今あるものに感謝する」ことに抵抗を感じるはずだ。だけどこの場合の平気は”まったくなくなってもいい・手に入らなくていい”という意味ではなく、あってもなくても心が平常だと言いたいのだ。ないから不幸という状態はあり得ないのです。ベースが幸せだと、より幸せになるか嬉しいとか楽しいという感情になると思われます。

度々引き合いに出して申し訳ないと書きつつ、どうでもいい人だからどうでもいいと思うので再び登場させますが、先日の彼女とのことは私の中では不幸ではない。もしベースが不幸だった時の私ならこの出来事をどう捉えていたか考えてみた。

もし私が毒親持ちであることを誰かに理解して欲しいと願っていたなら、ここぞとばかりに全力で「かわいそうな私」を理解してもらえるように努めていただろう。「この人なら私をわかってくれる」と神のように崇め、より一層卑屈になって媚びへつらっていたかも知れない。

少々抜け出した頃なら、同情されることに優しいなと思いつつ、「あ~やっぱり毒親持ちは偏見の目で見られるんだな」とか「見下されるのはやっぱりあの親のせいだ!私はなんてかわいそうなんだ」と要らぬ自己憐憫や怒りが生じたはずだ。当然、好きだったのに裏切られたというショックも受けただろうし。

しかし今はこれである。今幸せだから、そんなことで私の幸せは揺らがないのです。瞬間瞬間でイヤな気持ちになる時はあってもベースに戻る。物事は取り方次第と言いますが、受け取り方をあれやこれやと模索しなくても、同じ出来事でも自分のベースによって自然に変わってくる。人生はこれの繰り返しだ。

対する彼女の方はどう思っただろうか。多分だけど彼女は本当にかわいそうだと思ったのかも知れないし、見下しの感情に気付いていないかもわかりません。だとすると、「そんなつもりで言ったのではないのに」と現実を突きつけられた彼女の方が逆に落ち込んで、今不幸な彼女は更に不幸を感じている可能性もなきにしもあらず。

無意識に発せられた一言でも、今の状況や感情によってこんなにも捉え方が変わってしまうのです。いくつもの選択肢から意志とは無関係に何かを選んでいる。だからこそ無意識を無意識のままで置いておくのはとても怖い。私はもう、願いが叶うとか叶わないとかに左程関心はありません。潜在意識って、この世の中の何よりも最初に知っておかなければならない事なんじゃないかとすら思う。