崩壊

『人はなりたい自分になっている』

既に今の環境を受け入れているからそこへ留まっていられるのと同じで、人はなりたい自分に既になっている。今の自分が嫌いだと思っていても、既にそんな自分を許している。自分の思考が今の自分を選んだのだ。

 

先日、友達(みたいな女性)とご飯を食べに行った。ちなみに彼女が以前経営していたお店には仕事関係の人を連れて行っているし、接待でもよく使わせてもらいました。なので彼女は私を取り巻く環境に詳しい。

私の同業者の先輩にマウンティングおばさんがいる。かなり強烈なキャラのおばさんをよく覚えていたようで、彼女のほうからおばさんの話題を振ってきた。色々と話をした後、彼女は「あの人はかわいそうな人が好きなんでしょ。自分が優位に立てるから」と分析した。確かにな。

そこでふと疑問が生じる。…私は”かわいそうな人”ではなかったのだろうかと。私はおばさんからなかなかにエグい暴言を吐かれたりして、当時の私はとても傷付いたし、忘れられない言葉もあった。だけど、私とおばさんも『不幸』というワードで繋がっていた時期があるのだ。なのになんで?私だってかわいそうなはずではなかったのか。

思い切って聞いてみた。「ねぇ、私はかわいそうじゃないの?」彼女は「(私)ちゃん?かわいそうじゃないでしょ?」と即答。念のためもう一度「そうなの?」と聞くと「かわいそうなの?どこが?」と笑った。そっか。私はかわいそうなんかじゃなかったんだ。そっかああー(歓喜

彼女は続けて、私に対するおばさんの態度についても分析してくれた。それは思いもよらないものだった。私にとってはかなり肯定的なものだったが内容は書かない。彼女はおばさんではないので推測の域を出ることはないのだから。それでも彼女が私をそんなふうに思ってくれていたことは素直に嬉しかったです。

それはさておき。今はおばさんの心理なんてどーでもよくて。私が盛大な勘違いをしていたかもしれないことが大きな問題なのです。私が思い込んでいた、決め付けていた現実なんて最初からなかった可能性が浮上した。マズい。非常にマズい。潜在意識の深さと怖さを思い知った出来事であった。

人間は見たいものを見たいように見ている。とはいえ「自分に都合よく」という意味だけではない。潜在意識に刻まれた思考を現実として生きているということだ。もしかすると私は現実を全く見ていなかったのかもしれない。だとすれば私は何を見ていたのか。真実とかけ離れた映像を私が現実と思い込んでいただけだったとしたら。

過去が崩壊する。

あなたの思考がなきゃ何が世界を作るというのだ?

どういう映画を上映するかはあなたが選べる。

お風呂に水をはるか湯をはるかはあなたが選べる。

映写機に選べる力などあるわけなかろう。

排水管に選べる力などあるわけなかろう。

あんなのは、詭弁なのだよ。