過去→今

※一部、不快な表現を含みます。

 

私はこれまで、嫌な思い出を残すきっかけとなった相手を憎むと同時に、自分にも悔しさや情けなさを感じていました。その時は自分を「責める」感情がほとんどだった。罪悪感を捨てられなかったこと、どこかで信じる気持ちを持っていたことなどへの後悔だ。しかし自分を責めても何も変わらなかった。私にとって自分を責めるという行為は一種の思考停止状態で、逆にそこへ留まることになるようだ。

対する怒りの感情の中には自分の本当の思いが隠れています。無意識に沈めた怒りが表面化してくるのは、私の思考は私のものであるという認識を強めたからだと考えている。もちろん今も後悔の念はあるけれど、それは「しなかった後悔」であり以前のそれとは全く違うものなのです。

私は最近、イメージの中で父に殴られる母を静かに見ている。もちろん庇わないし助けない。困った時だけ泣きついてくる兄弟を自己責任だと突き放し、怯んだ所で頭を蹴り上げている。亡くなる直前に号泣した父に至っては「くだらない人生だったね」と笑いかけています。

どうせなら暴力などのない温かな家庭をイメージすればいいのかも知れないけれど、温かであろうとなかろうと私にとっては必要のない人達なので難しい。何より可哀想とか自分が酷い事をしている意識を持てないのだから仕方ないです。とにかく罪悪感を抱いていた私はいなくなった。

これらが今後の人生にどう影響するのかはわからないけど、私と自己愛の関係は明らかに変わりました。つまらない家庭のつまらないカースト制の一番下に属し、いつか家族が人の心を持ってくれると願い、自己犠牲を払った。そうした過去と、いつか認めてもらえるのだという幻想を捨てた私にとって、そこから繋がっている自己愛がどうでもよくなるのは当たり前なんだろう。

私はもう自己愛に認めて欲しいと思えないし、例え認めてもらったとしても、「それがなに?要りませんが」という心境になる。寧ろあんな望みを持っていた自分が恥ずかしい。現実の力関係は上司である彼の方が上だけれど、精神的には対等もしくは私の方が上かも知れません。ちょっと笑顔を見せただけで浮かれて喜び、冷たい視線を送れば目を逸らす。馬鹿みたい。

とはいえ、クズはどこまでいってもクズだと極限まで思い知らせてくれた彼等にはとても感謝しています。私は彼らのお蔭でここまで来れた。私がどうしても捨てたかったもの、家族への期待や罪悪感を消し去ることができたのだから。彼等はその為だけに存在しており、今の私には用済みなのです。と、こんなふうに過去から現在を変えるのは可能なのだと思う。

自分を変える事について。自己愛のパワハラを例えに出すと、彼が変わってくれるのを願い、顕在意識で自分を変えるのはどうなんだろう。私の場合は、彼の思うように気の済むように動いても事態は悪くなる一方で、何をしてもダメでした。そして過去から見た今、私の方が彼をどうでもいいと思っている。

今はパワハラを受けていないから余裕綽々なのかと思われるかも知れませんが、仮に再びそれを受けてもおそらく私は何も感じないと想像します。もしそうなったとしたら正論で追いつめて、彼等の持っている劣等感を暴くつもりだからだ。つまりパワハラそのものが私に力を与えないということです。

他人視点から見て、DVを受けているけど離婚ができないという状況だとすると。離婚できないという現状を固定した上で状況を変えようとするから何も変わらないのかも知れない。自分が変わるとは、過去の自分から切り離されるということです。その結果、あっさり逃げられたり離婚できたりという結果になったりするのではないかと考える。旦那のDVが治まるのではなく、離婚できない自分から離婚したい自分に変わったから。

自分が変わったから相手が変わるのではなく、自分が変わったから現実が変わるんですよね。わかっちゃいるけど難しい。