2本のレール

物事に対する認識が変わる時、認識そのものは一気に変わる。だけど変わる前の思考を忘れたわけではないので、過去の自分をしばらく引き摺ることになります。更に周囲がその変化に戸惑うのは当たり前で、そことの擦り合わせも疲れる。

これまで変化と共に環境を変えてきた私にとって、今の経験は初めてだ。この2か月ほどはとても長い時間で、たった1か月前の出来事が随分前の事のように感じられる。疲れるのも無理はないかなと思っています。

今の環境。私はかつて自己愛を尊敬していた事もあった。それが今となっては信じられない。どこにそんな要素があったのだろうと観察しているけれど、どうも見当たらないのだ。努力して財を築いたことは純粋に凄いのだけど、私には関係ないので尊敬とは違う。

パワハラが治まったという点では自己愛も変化したと言えるのかも知れませんが、根本的には変わっていない。だから自己愛は私との距離をどうすべきか考えている。まず私の目を直視できない。そしてどう接すればいいのかわからず、チラチラと様子を伺っているのが見て取れる。

私は彼に色んな事を教えてもらった。私が必死に認めてもらいたいと願った人は私にとって全く価値がなかったのだと検証できたことが一番大きい。『人間は正しいと思うことを信じ、検証していくことでしか前に進めない』という言葉に深く共感しました。

私は認めてもらいたいと思っていると自覚していたけれど、本当は諦めたかったのではないか。自分の望む形で認めてもらうことは不可能だと、絶対にありえないことなのだという決定的な証拠を求めていたような気がする。

「いつかは」「もしかしたら」自分の中にくすぶっている消せない期待を完全に打ち砕く何かが必要だったのです。そしてその役目を完璧にこなしてくれたのは自己愛である。だからもう私にとって彼を必要とする理由がない。彼はただの物体だ。

プライドが高く自己顕示欲が強い彼にとって、今の私はどう映っているだろう。私の態度は彼にとって屈辱的なものであろうと思う。しかしどうでもいい。

私が(自称)不幸だった頃、幸せな人は別の世界の人だった。幸せな人の気持ちが理解できなかった。理解できない人には関心を持てない。何が楽しくて、どうしてそんなに笑っていられるのか想像すらできないのだから。

思考が反転した今、彼の気持ちが理解できなくなっている。どうしてそんなに他人に拘るのか、それであなたは何を得ているのか、それは幸せなのかと思うことがあります。以前の私と見ているものがまるで違うのだ。

精神の二極化の話で、二本寄り添っていたレールが分かれ、各々の電車は反対方向へ走り出すという例えがありました。あれはこういう事だったのだろうか。

私は多分、戻りたくても戻れないところまで来ている。そんな気がする。