丸投げ

潜在意識に丸投げすることについて。丸投げとは文字通り「何もしない」ことで、何もしないというのは結果の為に顕在意識で現実を動かそうとしないということだと思います。多くの潜在意識の達人たちは願望達成時に「何もしていない」と答えていますが、こういう状態を指しているんだろうか。

私は大きな事を成し遂げたわけではないので説得力はありませんが、今の所は結果すら想像しないで生きており、ワタシ(潜在意識)に「とりあえず上手くやっといて」というアバウトな任せ方をしている。どんな形であれ結果が良ければそれでいい、とそう考えているからです。

では誰がとりあえず上手くやってくれているのかというと、シークレットでは宇宙だったり、超意識というものだったり、電子書籍のザ・チケットなら別の領域と呼ぶところなのかも知れません(読んでないから解釈の仕方は違うかも知れないけど)。とにかくすべてを見渡せる空間のようなもの。

潜在意識は私のものというか私自身ですが、現実にとりあえず上手くいくには必ず外部からの力が必要になる。例えば私がルビーのピアスが欲しいと願ったところで買えるか買えないか以前にルビーを採掘する人が必要になるように、ワタシがルビーを発掘して加工してくれるわけではないからです。

ということは潜在意識が願いを叶えるというより、潜在意識はどこかへ願いを届ける中継地点なのではないかと考えるようになりました。私がどの段階でそれらを信頼するようになったのかはわかりませんが、丸投げに至る大きなきっかけになったと感じていることがある。それは自己愛からのパワハラです。

私は基本的に人に頼るのがあまり好きではありません。求められれば結果を出そうと尽力しますし、任された事はたった一人でも必ずやり切る方だった。責任感が強いと言えば聞こえはいいが、本当は他人に任せるのが怖かったのだと思う。それに加えて「認めてほしい」という我の強さを捨てられなかった。

当初は自己愛本人が望んだにも拘わらず、思わぬ方向へ向かい出したことからパワハラが始まった。私はそれについて最近、自己愛の気持ちがわからなくもないと思うことがあります。彼もまた「認めてほしい」と願い努力をしてきたのは事実だ。日々自身の技術を向上させてきたであろう彼が、口だけで生きているよう(に見える)な相手に対して複雑な感情を持つのは当たり前なのかも知れないと。

私の中では、彼はハードで私はソフトという認識があったのだけど、彼はそう認識していなかっただけ。努力の方向性が違うだけなのに、お互いが自分の正しさを押し付けあったがゆえ、起こるべくして起こったことだと思っている。だからといって元の関係に戻りはしないけども。

話が逸れましたが、私はパワハラにより完全にではないにせよ仕事を放棄した。これまでの私には考えられなかったことですが、結果的に私が折れた形になったのではないか。なぜなら私が動けば動くほど彼の無意識の願いからは掛け離れていくからです。私が仕事を放棄する事は彼の潜在意識の願いと一致したのだろう。

同時に私も自分の意識していなかった本当の願いを知ることになりました。私は働きたくない。というか無駄な労働をしたくない。他人に認められることに価値を見いだせない。だから仕事はやりたい人がやればいいと思っている。認められたい人が認められるために努力するのは当たり前ですから。

言葉だけを見ると極めて自己中心的な考え方のようですが、私と自己愛に限ってはこれでwin-winで誰も困っておりません。彼はそう出来る環境にいながら、(言い方は悪いですが)口先で人を動かすだけでは満足できない人。そして私は意外にもそれを快だと思える人だったということです。

私たちは自分の好きなことをしているだけでとりあえず上手くいっている。成り行きに任せるというか流れに乗るというか、こうした考え方は過去の自分には全くなかったものだけど、実際にやってみるととにかく楽である。

私が下らない理想(ただの幻想でしたが)を掲げたままでこれまでと同じように会社を辞めていたら、間違いなく再び同じ結果になっているはずだ。自分の力=顕在意識で何かを得ることに喜びを感じていた以前の私なら、今の状況はやりがいもなく苦痛に満ちたものだろう。でも今は何故あんなに疲れる生き方をしていたのかと不思議に思います。

もし私が自己愛と何のトラブルもなくあのまま走り続けていれば、『任せる』という感覚を知らずに人生を終えていたかもしれない。自己愛からパワハラを受けたお蔭で、丸投げすることの多大なメリットを知ることができた。そういう意味では自己愛も私の人生を大きく変えてくれた人だといえます。

今の私の考え方は一般社会では到底受け入れられない考え方だと自覚している。けれど私はやりがいがないからといって辛いんじゃない。時間は拘束されるけれど、好きな事をしてお金が貰えるのだから楽しくないわけがないだろう。

やりがいがないから仕事が楽しくないという悩みを持つ人は多いように見えるけれど実はそうではなくて、本心ではそんなことを望んでいないのに「やりがいがあれば楽しい」という他人の認識を信じ込んでいるから楽しくないんじゃないかと思っている。

自分以外のものを目指すのは全知全能の潜在意識に抵抗するのと同じ。だから苦しくなるのかも知れないですね。ただし無計画に他人任せで生きるのとは全く別物なので、言葉の表面だけを鵜呑みにすると大変なことになりそうだけど。