無関心≒愛という考え方

こうなってくると、つくづく「親を許さなければ幸せになれない」という言葉の重みを感じます。鵜呑みにした私が悪いんだけど随分と無責任な言葉だなぁと思います。ここでも認知の歪みが生じていた私にとっては、許せない自分を責める材料にしかならなかった。

もちろん今も普通でないことは自覚しているし、ブログを書き始めた頃の自分の望む自分とはかけ離れていっているのもわかっている。でもそれが”自分”なのなら仕方ないではありませんか。私は醜い感情を持つ自分より、誰かに望まれる私を演じる自分の方が嫌いだからです。

近頃、随分と攻撃的な事ばかりを書いておりますが、リアルな人間関係は概ね良好です。私が攻撃的な面を向けるのはある種の人達に対してだけで、そうでない人達にはそもそも攻撃しようと思う出来事がない。そこにあるのは褒め合ったり、認めあったりするといったポジティブなものです。

過去の私は大切にする人を間違えていた。どうでもいい人間ばかりに気を取られ、大切にしなければいけない人を軽視して蔑ろにした結果がこれだ。ここらで方向転換しなければ私は一生底なし沼から出られないと思うので、自主的に攻撃性を強めている次第であります。今周りにいる難アリの人は親に似ているから嫌いなんじゃない。私は残念ながら最も嫌いなタイプの人間から生まれてしまったというだけ。

私は今幸せかどうかと聞かれると答えにつまりますが、過去の自分と比べれば幸せと言えると思う。冒頭の親を許せなければ云々は結局、過去と今を分離できればそれでいいということなんでしょう。過去に力を与えない、今目の前で起こっている事に過去を重ねなければそれでいい。そうなるための方法の一つとして「許し」があるのではないかと考えています。

現実に起きた過去は変えられない。でも弱かった過去の自分を強い自分で塗り替えれば、その記憶は徐々に薄れていく。記憶を変えたくない、現実をなかったことにしたくないのであれば、それはまだ捨てないことにメリットを感じているのだと考えている。何かや誰かのせいにできないデメリットが生じるからではないだろうか。

本当はやり返せていた、言い返せていた。でもそうしなかったのは自分。起こった現実は本当はどうでもよく、それを許可したのは自分であるということ。私が選んだのだから捨てる権利もある。だから捨ててもいい、許さなくてもいい。許さなければいけないのは親じゃない、自分自身です。

今の私には常識がありません。生み育ててくれたのだから親の面倒を見るのが当たり前、とかさっぱりわかりませんね。否定はしないけど、したい人はすればいいんじゃないの?と思っている。人でなしと言われようと、例え愛する人から「そんな冷たい人間は嫌いだ」と言われようとも変わらない。それが本心なのなら致し方ありませんですし。

もちろん親を許し自分も許した方がいいとは思いますが、それが絶対かと聞かれると疑問だ。私は家族の過去の行いがどうでもよくなってきている状態も、ある意味で「許している」と言えるのではないかと考えているからです。可もなく不可もなく、あってもなくてもは中立=「ゼロ」は「ゼロ」でしかないのではないか。

そうなると、「どうでもいい」は愛なんじゃないかと思ったりもします。興味がないかわりに相手をまるっと受け入れていることでもあるんでね。言動を受け入れるか否かはこっちが決めることだけど、少なくとも相手の心を自由にさせているんですから。「好きにすればよろし」って許しじゃなくてなんなの。

愛の反対は無関心っていうけど本当にそうなんだろうか。あのマザーテレサが言ったから尤もらしく自分のものにしてるだけなんじゃないの?無関心も愛のうちって可能性はないの?

誰も自分に関心を持ってくれないって嘆くより、誰も関心なんて持ってないんだからフリーダムに生きる!の方が精神も健康に保てると思うんですけどね。もちろん犯罪とか人を傷付けていいわけではなくて、自分の気持ちに正直にってことですけど。無関心=自由を許されてるって考え方は駄目だろうか。