今日、人も物も同じと書いたのだけど、それと同じように金と愛も同じだと考えています。幸せな出来事もないのに「今幸せ」であるのは私自身の努力の結果だと思っている。これについてはまた別に書くつもりなのですが、とにかく「今不幸」だった私が「今幸せ」の状態でいられるのは紛れもなく私のお蔭だ。

私の場合はIさんの存在が多大な影響を与えていて、彼がいなければ今の状態にはなっていないにしても、形に変えたのは私自身。自分が努力して得たものを簡単にほいほいと他人に渡していいものかと考えるようになった。ここにもスピリチュアルの罠があって、与えられたければ先に与えなさいというのもそれだ。

例えば私は母親を庇って自分を差し出した(殴られた)けれど、それはすぐに母親にとって当たり前になり、父親からは殴られて当然の事をしたという認識だけが植え付けられた。この出来事そのものはどうでもいいのですが、私は当時からずっと「与えた」と思っており、それが今へと繋がっている。

私は先日、何も言えなかった自分への怒りが湧いたと書きましたが、ひとしきり暴言を吐いた後、もしかすると私はとんでもない間違いを犯していたのではないかと疑い始めた。母は頭が悪いのだけど、私が庇ったお蔭で却ってそれを助長してしまったのではないだろうか。そして嘘を見抜けない父も同様、それを早々に暴いていれば次からは一旦母を疑うという方向へ変わっていたのではないかと。

つまり問題を解決する種はあったのに私がそうしなかっただけで、変えられたかも知れないものを変えなかったのは自分ということになります。子供だから致し方ないのはやまやまですが、とにかくその方法しかないと考えたのは私。そうなると私が「与えた」と思っていた過去は実はしなくても良かったことで、「与えた」という認識が根底から崩れる。

こうしたことから「与える」とはなんなのか、どの状態なら与えたと言えるのかなどと考え、与えるという行為そのものに疑問を感じ始めたのです。先ず与えなさい、と言われれば認知の歪みが誤作動を起こし、顔色や口先の望みを叶えようとする。だから自分を犠牲にしてまで尽くすことに違和感を感じることもなく、来もしない「いつか」を待ち望むという残念な結果になったのかも知れない。

よって誰より何よりまず自分。与えてもらいたいなら与える、を間違って捉えたまま実行するのはギャンブルのように、たまたま当たった時の快感を得るためだけに全財産をつぎ込むのとなんら変わらないのです。勝ち続けるにはそれ相当の正しい知識と経験が必要なのと同じで、闇雲に愛を与え続けるのは身を滅ぼしにいってるようなもんだ。

正しい意味で自分を愛し、自分を大切にする人ばかりなら世の中の争いは減るだろう。自分で自分を支えられれば、むやみやたらに他人から過剰に愛を奪おうと思わないからです。欲しがり、奪うのはいつも持たない人ばかり。もちろん金も愛もあればあるだけいいと思うし、人間の欲求には際限がない。

問題なのはどれだけ欲しがるかではなく、得る方法を知らない人間は奪うしかないということです。穴の開いたバケツを自分で修復しなければ、溜まることも溢れることもありません。穴を塞ごうともしないのに、ないのだから与えられて当然という人達に分け与えるのはお金をドブに捨てているのと同じなんだよ。

平等とは分け隔てなく与えられることではありません。与えたものに対しての対価を貰うことが平等なのです。そして、この与えて与えられるというのは目に見えるものだけではなく、寧ろそれ以外のものの方が多いのではないかと考える。

私は完全に自立したとは言い難いけれど、最近は自分が自由でいる事が他人を自由にするのだと感じています。昔の私は我慢してますオーラが全開だったと思うので、さぞや他人に窮屈な思いをさせ、その上心理的な面で相手に我慢を強いたのだろうと反省している。私の自称我慢は普通の方に苦痛を与えていたんです。

だから我慢を強いる人ようなとは離れなければならない。自分が稼いだお金を、自称かわいそうな人に渡すわけにはいかんのです。そういう人はたいてい他でも同じことをしている。そのお金で海外で豪遊させて、自分はご飯に塩掛けて食べるような人生は楽しいか?私はそれを愛だとは呼べませんけど。

私は今、自分改革の過渡期にある。たまたま読んだのですが、今の状態《怒りが湧いてきたり、他人がどうでもよくなったり、自分勝手に思えたり》は本来の自分を受容できている証拠なのだそう。確かにいい子ちゃんではいい子ちゃんを求める人しか寄ってきませんから、そこから抜け出さなければ本当の自分で生きられない。納得。

今の状態を経て、本来の意味で他人を受けられるようになるらしいので、いずれ時期が来ればワンネスとかも理解できるようになるのかも知れません。でも今この瞬間は大切なものだけを大切にしたいんだよ。

Iさんが種を撒いて私が育てた花を踏み散らかすような真似はさせたくない。「綺麗」だと愛でてくれるような人にしかあげたくないの。