我慢しない人になる

私は先月から語学の勉強をしている。だからここを開くのが少なくなってしまった。特に変わり映えもしないので書くことがないという理由もありますけども。

ところで、スイスでの安楽死については実現が難しいようです。費用が400万程度必要なこと(倍は大きい)、治る見込みのない難病であることが条件だそうで。いざとなれば安楽死でなくてもいいので、そこへの拘りはあまりないけれど、死への思いは変わらない。

なんだろう。「死にたい」でもなく「消えたい」でもなく、ただ単に生きることへの執着がない状態だと言えばわかりやすいのか。つまりどっちでもいいってことです。ついでにスイス行きを考えるきっかけとなった似非弱者のお世話云々も、お世話をしなければ解決するのだから既にどうでもよくなっている。

私はもう自己愛達、似非弱者に対して感情が動くことはありません。「望んだのはあなた」似非弱者だけではなく、世の中すべてのひとに今私はそう思っています。病気や事故に関しては当てはまらないけど、そうでない場合は自分を変えれば何かが変わるかも知れないからだ。

生への執着もなく、他人に固執することもない毎日。傍から見れば寂しいと思うだろうか?孤独な人生だと可哀想に思えるだろうか?全く違います。

生への執着もないので、もう私は普通でなくていいと考えている。人並み・一般的な大人を目指すのを諦めた。会社勤め、正社員とかは私にとって普通であるための必須条件だったような気がしますが、移住とかもいいなと思い始めています。おそらくしないだろうけど、早い話が飽きてしまったのだ。

私が大切だと思い、大事に抱えてきたものの価値が大きく値崩れを起こしている。レールからはずれないよう他人と足並みを揃え、他人の顔色を見て自分を繕わなければならない。そこまでして得たい物ってなんだろう。「皆そうして我慢して生きている」というのなら、それは否定される怖さからでしょう?

他人の顔色を見るのは2通りの種類がある。良い意味は気遣い、悪い意味は機嫌取り。機嫌を取る=好きでもない人のいいなりになるから苦しいのであって、良い意味であれば何の問題もない。むしろそれをしなければいい関係は築けない。私は人と関わりたくないのではなく、関わる以上は良い人でないと嫌なのです。

だからそうでない人は切る。執着がないのだからどう思われようと構わないし、何より執着する人は執着しない人には心理的な意味で絶対に適わないんだよ。何に恐れているのか、そこを突かれるのが怖いからだ。

私はもう舐められることはありません。今まで舐めていた人が敬語を使って媚び諂ってくることもあります。なぜだかわからないのですが、当たり前になりつつある。

そして最近、私の周りで「人間性」という言葉をよく耳にします。これまで自己愛のような一見強者に見える人々へ抱いていた畏怖の念は着々と薄まっている感じがする。「そういう人間性だから」「元々の人間性だよね」などと、どこか見下したような見放したような言い方。やっとここまで来れたなと感慨深い時があります。

本来我慢しなくていいはずの人達が我慢しなければならない世界は要らない。特定の誰かのためではなく、そうした人のためにまず私が我慢しない人になろうと思う。