排除

私は今のところ営業なので人と関わらずにはいられない。顧客に必要とされなくなったら営業を降りた方がいいという主義だから、顧客から嫌われるのは困る。一部を除き、会社の人達ともうまくやっていきたい。

できるなら、私の顔を見るなり銘柄を言わなくても煙草を持ってきてくれるコンビニのお兄さんもそのままでいて欲しいし、いつも満面の笑顔で接してくれるスーパーのお姉さんにも冷たくされたくはない。

私は人が必要だ。にもかかわらず必要じゃないと何度も言っているのは以前の自分、他人に理解を求め、コントロールしたいという気持ちがなくなったということです。

幼い頃から母のお守をしていたので私が頼ることはとても少なく、頼られることの方が圧倒的に多い。本当は利用されていたと書くべきなのだけど。そのくせ、頼ってくる人に限って『頼りにされない』ことに腹を立てるのだ。私に頼る→負担がかかる→頼ることを要求する→更に負担がかかる。なにしろ要求が多い。

もうこの流れはうんざりだ。自己愛は典型的な要求お化けなので、いちいち頼ってあげるフリをしなければならなかった。かといって解決などしないのだから、最初から自分だけで行った方が早いし、そのワンクッションがいらぬ手間である。

私が上司や社長からパワハラをうけ続けた理由はここだと思っている。要するに可愛げがないのだ。若い頃から可愛げがないのは自覚しているので、それなりに努力はしてきたけれど全く実にならなかった。そもそもそんな努力をした理由も、どこかに誰かの庇護を求める甘さがあったからだ。

少し仕事は一段落しましたが、しばらく続いた怒涛の日々の間、私はほとんど自己愛に相談も報告もしなかった。そのワンクッションが無駄に次ぐ無駄なのだ。「なぜ俺に相談しない!」と怒り狂うことも予想していたが(スルーするけど)、今回ばかりは遠目から見守り、ちょいちょいご機嫌取りすらしてくる始末。

「なぜ自分だけがこんなに仕事をこなさなければいけないのか。給料も変わらないのに。認めてもらえないのに。」そんな気持ちは全くありませんでした。私は他人に対する期待を捨てたからです。相手がどう思おうと自由、嫌なら自分が去ればいい。そう思っているから。

少々疲れはしたものの、それよりも自分の中から湧いてくるエネルギーを持て余すほどだった。アドレナリン出まくり。誰かの心を先回りして見透かし、要求に応えることがどれほど疲れるか。悪びれもせず、さも当然のように考えている人は感謝などしない。故に何も得る物はないと改めて感じました。

私は今だけを生きている。この先もああしてこうしてなどと考えれば、理不尽なことにも耐えなければならなくなる。今の私にとって『明日』はあってないようなものだ。あってないようなものに割く思考や時間を無駄にしてはいけない。その代わりに誰のせいにもできない覚悟もいるけれど。

 

似非弱者を「更生の余地がある」などと希望的観測だけで野放しにした結果はどうだった?圧力に負けて、臭いものに蓋をし続けた結末はどこへ向かう?誰かの心を照らす光を奪ってまで守りたかったものはなんだ?それがこの国の正義か。

やはり似非弱者は排除するべきだと強く思う。差別主義者と言われても一向に構わない。「排除しようとすれば排除される」などという脅し文句も今の私には全く響かないのだし。