コードとか安寧とか

先日、”潜在意識的には(思考の中で)自分の世界に入れない、排除する方法があるらしい”と書いたあと、すっかり忘れていたエーテルコードの存在を思い出しました。エーテルコードとは他者とを繋いでいる見えないコードのことを言い、それを通じてエネルギーのやり取りが行われているらしいです。

エーテルコードそのものに問題はないのですけど、悪意を持つ人からコードを伝ってネガティブな念が飛んできたり、パワーを奪われたりということがあるという。このコードを切るには大天使ミカエル様(!?)のお力を拝借するのが効果的だとあちこちで書かれていますが、自分で切る事もできるようです。

ちょっと調べた所、全てのエーテルコードを切断してしまっても、必要な縁は再び繋がるらしいので(理由は失念)、早速実行することにした。痛い所やチャクラから伸びている説もありますが、私は全身からコードが伸びているイメージをしてバッサリ切ってみました。ちょうどエノキを切るようにザクッと。

全部のコードを切るのは数日行っただけでやめてしまったけど、共依存者と自己愛とのコードは常に切断するよう心掛けている。頭に思い浮かんだ時点で、コードを引きちぎるか大きな鋏でぷっつりと切るイメージをしております。気の持ちようなのかも知れませんが、これがなかなか良くて、すっと気持ちを切り替えられるようになった。

まだ1週間も経っていないのに、同じ空間にいても存在を感じない時の方が多くなりました。だから仕事だけに集中できるし、サクサクこなせて実に快適だ。今まで自分の方から意識を繋げていたんだなと改めて思います。彼等に波長を合わせてはならない。

 

スイスへの憧れは無駄に私を強気にさせる。たまに「これ、実行できなかったらどうすんの?」とエゴが囁いてきますが、そこは敢えて「そんなわけないだろ」と一蹴しています。私はどうしてもスイスに行きたいわけじゃないんだけど、ただひたすら以前の自分に戻りたくない一心なんだ。今そのためにはスイスが必要不可欠なんで。

昨日、氏のような人の”お蔭”でって書いちゃったから、人のせいにしているように見えるかも知れませんが、私はスイスに行きたいと考えた事を他人のせいだは思っていない。例え間接的にでも似非弱者に搾取され続ける人生なら、それが当たり前の社会なら天に身を任せた方がマシという、自分の中では前向きな諦めである。やれるだけのことはやったのだからもういい。

無駄な強気について。今、誰かに「死ね」と言われても、きっと私は動じない。想像してみても何の感情も湧かないし、「そんなの他人が決める事じゃないでしょ」と言うだけだと思う。そしてもし私が自ら天に昇っても、誰かに「もしかして自分のせいかも」なんて思われるのは心外だ。他人にそこまでの影響力はないよ。

今の本音を言うと、なんで皆そんなに他人が必要なの?と身も蓋もないことを考える自分がいます。人と関わりがなくなると病むのが当然みたいな風潮ですけど、みんな本当に心の底から望んでるんですかね。世間の認識を取り込んで、自分のものにしてる可能性はないの?「人との関わりがないから不幸」の常識に染まってないですか?

更に本音を言うと、幸不幸もよくわからなくなった。私は不幸だからスイスへ行きたいのではないし、スイスへ行きたい自分が不幸だとも思わない。「そんな悲しいこと言わないで」とかいかにも偽善者が言いそうなセリフに、「は?なんで私が悲しいかどうかを他人が決めつけてんの?」と食って掛かりそうな勢いです。

私の思考も感情も全部私だけのものだよ。他人のジャッジなんぞ要らん。てな位には強気です。どうしてこうなったのかは謎だし、明日になったら変わってるかも知れないけど、少なくとも他人の支えを待つよりは心に安寧が訪れると思う。

心は平穏なんだよ。ホントに。