心の格差

あの事件の事とか色々書いたのですが、不毛だなと思ったので公開するのをやめました。そんな事ばっかり考えてたら、たちまち体調が悪くなりますし。 

 

先日「幸不幸もわからなくなった」と書いた件について。最近ふと気づいたのだけど、私は今幸せなんだと思う。それは「幸せになりたい」と思わないし、色々あっても「私は不幸」とも思えないからです。既にあるものは望めない。

今の私にとって幸不幸が何を指すのかと言うと、単なる「心の状態」です。だから何不自由なく恵まれた人生でも不幸になれるし、何もないドン底でも幸せになれる。今苦しい人に「心の在り方を幸せに向けた方がいい」とかの言葉は残酷だから、そんな事を言うつもりはありません。ただ、そうなることは出来るってだけで。

私の考えていた幸せとは全然違う所に行きついた自分が自分でもよくわからない。幸せってもっと煌びやかなものだと思ってたけど、煌びやかに見えるほど不幸を感じていないと、その感覚にはなれないのかも知れない。もちろん日々煌びやかな幸せを感じている人がいるのは知っている。でも多分、単純に私には向いてないだけだ。

いつも幸せな状態だと、当然ながらそれが普通だから勝手に維持してくれるような気がする。しかし過去を振り向いてみて、私は不幸が普通だから不幸ばかりが訪れたのかというとちょっと違う。過去も今も同じような悪い出来事は起きているはずだ。同じ出来事があっても「不幸が普通」だと不幸な出来事になり、「幸せが普通」だと気にならないから不幸を感じられない=幸せにウェイトが傾くのだと思う。

とはいえ捉え方次第と言えばそうなんだけど、無理やり「良い方へ考えなきゃ」とか「ポジティブに捉えなきゃ」と考える時点でもう「幸せが普通」な状態とは言えないのが難しいところ。当たり前ですが、悪い方へ考えている前提でないと「無理やり」は成り立たないので。

「今幸せになる」とは現状に満足したフリをして、それ以上を望むなという意味ではありません。それより「○○がないと幸せになれない」が既に不幸を望んでいる。「手に入らない限り不幸」な状態を毎日毎日せっせと送り込んでいるのと同じです。

今不幸な人が思いつくことって不幸になるような方向へしか向かないのは当たり前だ。頭では幸せになりたいと言いつつも、そう動くようになっている。他人の中に悪を見出すか善を見出すか、それすらも自分で決定しているというのに。 

私は多分今、自分軸で生きているほうだと感じているのですが、過去の自分や他人軸で生きてる人が何を言っているのか理解できない時があります。あの事件によって心の格差が浮き彫りとなり、その存在を感じた人は多いのではないかと思う。

自分軸で生きる人と他人軸で生きる人は既に分かれている。