不毛な人生

「自分らしく生きる」「自分軸で生きる」耳障りの良い言葉だけど、現実世界でそんなふうに生きるのは簡単なことではありません。まず絶対に『覚悟』が必要だと思う。あと『努力』も。

私が会社の彼女にモヤモヤしながらも厳しく接することができなかった理由は、私達が『不幸』という最悪なワードで繋がっていたからです。不幸の味を知った人間は同じ匂いのする人間を嗅ぎ分けることに長けている。しかし不幸の味を知っている者同士だからといって、同じ種類の人間とは限らないところがミソであったりします。

今思えば、私は本当に人に恵まれていたのかもしれない。ソウルメイトのNさんをはじめ、試練を乗り越え続けられるような人を沢山知っているから。そして私はそういう人に魅力を感じるので、遅ればせながら自分もそうなりたいと思っている。しかし、もちろんそんな人ばかりではない。不幸の埋め合わせを求める人とかね、いる。

彼女の人生はなかなかハードモードですが、私も結構な割合でハードモードなんだけど?世界で自分が一番不幸みたいな顔して、その埋め合わせを私に求めるのはおかしくない?ってずっと思ってた。「(不本意だけど)不幸を味わった者同士、助け合っていきましょう」ではなく「より不幸指数の高いワタシを助けてね」になるのはなぜなのか。

私は現在、言いたい事を言いたい放題言えて、ほどよく自由な楽しいサラリーマン生活を送っていますが、今の環境は私自身が努力して作ったものなんです。私はこれでも仕事に関しては一応努力している。今の会社だって「わかりません」「できません」なんて泣きつく相手は最初から誰一人いなかったんだよ。その結果が今ってだけのことで。

「自分らしく」は決して我儘放題に振る舞うことではないのだ。やるべきこともやらないで「自分」を貫き通したら、三下り半を突き付けられます。当たり前なんだけど。「自分らしく生きる」「自分軸で生きる」なんてのは、たいした努力もしないで「ありのままを受け入れる」よう求める人間には難易度高すぎなんですわ。

確かに不幸を味わった人間同士であるのは否定できないけど、一緒にしてもらいたくないです。

 

「自分らしく・自分軸」で生きるって、自分の「好き」を選択し続けることと通ずるものがあるなって思う。「仕方なく」とか「惰性」とかで、好きでもない人と一緒にいたり、望まぬ環境にいる理由は大抵、”他に選択肢がないから”である。そーゆー不毛な人生を歩まないためにも、やっぱり努力は必要なのだ。