格差の変化

少し前に小学4年生の女の子が実親に殺されるという事件がありましたが、私はほぼ見出ししか見ていない。目を背けたわけではなくて単に興味がなかったのです。殴る父親、我が身可愛さに子供を差し出した母親、「私の環境と似ている」とは思いましたが彼女に過去を重ねることはありませんでした。

こういう時に私はACから脱出できたのだろうかとふと考える。もちろんあってはならない事件だし、絶対に許されるべきではないと思う。ただ、あの両親のような人間は当たり前に存在し、その心理は到底普通の人には理解できないものなのです。

ネットではサイコパス自己愛性人格障害などもなかなかメジャーになってきましたね)だとかいう声もありましたが私は違うと考えている。いたぶって喜んでいるというよりも、自分の中では躾であり正しいことをしていると本気で信じているのではないかと思う。

「救えた命」と簡単に言いますが、親から虐待を受けた子供にとっては”生きてるだけでもうけもん”とは到底考えられない場合が大半ではないだろうか。片親だけならともかく、本来なら守ってくれるべき母親にまで裏切られた子の絶望は察するに余りある。親から離れたとて心の傷は簡単に癒えるものではありません。

彼女が助かっていたとしても、その傷は彼女自身にしか癒せないのです。その人生を想うと私は助けて欲しかったとも、亡くなっていた方が良かったとも思えない。何が正解かわからないというのが本音だ。

とはいえ母親が逮捕されたのは大きな進歩だと思う。母親もDVを受けていたとかなんとかで擁護の声もあったようですが、自分の身を守るために子供を差し出したことには違いない。洗脳でもなんでもなく、ただの似非弱者である。

少し前から暴力や暴言に対し、以前に比べて世間の目が厳しくなったとは感じていましたが、それらが急加速しているような気がする。なんというか世の中が似非弱者に気付き始めたような。私の世界だけかも知れませんが、似非弱者は弱者ではないと発信されてきています。

それに伴い「自立」という言葉をよく目にする。経済的自立はもちろんですが、どちらかと言えば精神的自立に重きを置いて使われています。誰もに余裕がなくなったからかとも思いましたが、そういうことでもなさそうで。

私自身も自分を大切にするという意味が少しわかってきてから、ある種の人達との心の距離は離れ続けている。悪い意味で一方的に甘えてくる人間は邪魔でしかない。人に必要とされたいなら必要とされる人間になる努力をするか、必要としてくれる人を探し続けるしかありません。

必要とするか、大切にするかは与える側が決めることだ。求めるだけならまだしも強制するなどもってのほかです。以前書いた、自分軸で生きる人と他人軸で生きる人が分かれるとはこういう意味だったのだろうか。

推測だけど、あの母親は本質的に何が悪かったのかということを理解できないと思う。もう経済的格差は大した問題ではなくて、自分軸で生きている親の元に産まれただけで勝ち組と呼べる時代がきそうな気がします。なんとなく。